※ネタバレあり。
2015年のアカデミー賞作品賞受賞作。
これはすばらしい。どうすばらしいのか?
まずはあらすじをウィキから。
リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は落ち目のハリウッド俳優である。
かつては『バードマン』という3本のブロックバスター映画(英語版)で主役のスーパーヒーロー、バードマンを演じ数十億ドルの興行収入を稼ぐほどのスター俳優だったが、それ以降ヒットに恵まれず、20年以上が経過していた。
60代となり、家庭でも失敗したリーガンは『かつてバードマンを演じた俳優』として惨めな生活を送っていた。 単なる落ちぶれたアクション俳優ではなく、アーティストとしての自分に存在意義を見いだそうと自暴自棄になったリーガンは、ブロードウェイ進出という無謀な決断をする。 かつて俳優になることを決意したきっかけでもあるレイモンド・カーヴァーの短編小説『愛について語るときに我々の語ること』を舞台向けに脚色し、自ら演出と主演を務めることにしたのだ。
プロダクションは親友の弁護士のジェイクが担当し、共演者にはリーガンの恋人であるローラ、初めてブロードウェイの劇に出演するレスリーが選ばれた。また、自分の娘で、薬物依存症から回復したばかりのサムをアシスタントとして加え、本公演前のプレビュー公演は目前にせまっていた。
しかし、舞台制作を通して自身の抱える根深い問題と直面することになったリーガンは、いつしか今の自分を嘲る心の声に悩まされるようになる。 リハーサルの最中、1人の俳優が怪我で降板すると、その代役として、ブロードウェイで活躍するマイクが選ばれる。俳優として卓越した才能を見せながらも、身勝手極まりないマイクの言動に振り回され、プレビュー公演は散々な結果に終わる。また、公演の成功の鍵を握る批評家からも「俳優ではなく単なる有名人」と面と向かってこき下ろされ、本公演の酷評を宣告される。
そして本公演が始まる。
この作品のイニャリトゥ監督の映画は『バベル』を見たことがあって、これもかなり素晴らしかった。
バベルは『旧約聖書』の「創世記第11章」にある町の名。町の人々は天まで届くバベルの塔を建てようとしたが神はそれを快く思わず、人々に別々の言葉を話させるようにした。その結果人々は統制がとれずばらばらになり、全世界に散っていった。これを背景に、「言葉が通じない」「心が通じない」世界における人間を描く。
この映画は、バタイユの思想的だと当時思った。「」内がバタイユが使う言葉。
「人間は不連続な存在」で「孤独」である。「死」や「エロティシズム」を通して「人間は連続性を取り戻す」、「孤独」を突き破ってつながるのだ。
そういうのを描いた映画。
『バードマン』でも、もしかしたら、あまり主題は変わっていないのかな?と思わされた。
『バベル』が人間と人間の間の、生と死の、国と国の、夜と昼の、「境界」をはっきりと描いた作品ならば、『バードマン』のほうは「境界」を完全にぼかした作品だと思ったのだ。
また、『バベル』が孤独の解放をテーマにした、映像的にも内容的にも「開かれた映画」ならば、『バードマン』のほうは主人公の孤独と自己中心性を描いた、映像的にも内容的にも「閉じられた映画」だと思う。
「境界のぼかし」と「閉鎖性」を中心に語っていきたい。
以下、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』日本版予告編
映像を見てほしい。はじめからちょっと解説してみたい。
はじめの、建物内を歩いてる姿を長回しで撮っていて、建物内が何がどういうことになっているのか全く分からない。長回しはこの映画の基本的な撮影手法らしいんだが、その影響もあって(他の影響もある)、部屋というものが独立しているようには見えなくて(境界のぼかし)、独立しているのはむしろ建物。この建物に閉じ込められているような感覚を、観衆に抱かせる。閉鎖的なのだ。この建物以外でのシーンが非常に少ない。バーなど、かなり限られている。
で、この建物は劇場で、登場人物たちがいるのはその控え室や衣装部屋。
主人公らが劇場で演技している時、観客の存在感がほぼない。観客がいないところで演技しているように撮影されている。控え室から劇場に行っていきなり演技しだすため、演技しているのか普通に会話しているのか、パッとは分からない。境界がぼかされているのだ。
控え室での会話も、演技の練習なのか、雑談なのか、ぱっと見には分からない。こういう風に撮影しているのだ。
次。バードマンのポスターを飾っている額縁を、主人公が壁にぶつけているところ。
これ、主人公が額縁に手を触れていない。つまり超能力で額縁を吹っ飛ばしたり、他にも部屋にあるものを滅茶苦茶にしたり、「バードマンってのは役者じゃなくて、本当に超能力をもったヒーローなの?」と思わせる。大根役者の頭に鍋みたいな金属が降ってきて、大怪我する場面があるのだが、これも主人公が「俺の超能力だよ」みたいに言う。超能力者ではないんだろうが、そう思わせるように撮影している。これも境界のぼかし。
予告編から語ることは以上。
最後のほうは、現実か非現実かの境界すらよく分からなくなる。
ここまでありとあらゆるものの境界をぼかした作品っていうのは、ちょっと記憶にない。夢と現実の境界をぼかしたなどならたくさんあるけども、それだけじゃなくて、上記したようにぼかしすぎている。だからといって、ストーリーが滅茶苦茶になっているわけでもない。
解釈がゆだねられている、という点を除けば、非常にストレートなストーリーだ。
主人公は自己中心的。
レイモンド・カーヴァーの短編を舞台にするんだが、その理由がカーヴァーに影響を受けて役者になったから。で、カーヴァーの短編を舞台にするってのは「ばかげてる」らしいんだ、わたしには分からないが。
娘にも愛されたいんだし、上手くいかないとモノに当たるし、自分がヒーローになってまた目立ちたいんだし、パンツ一丁の姿で街を歩いてる姿がyoutubeにアップされたら恥ずかしがってるし、笑、こういう幼稚性を映画全体が表現してるんだなと思う。
それはそれで良いのだ。この映画に出てくる、レイモンド・カーヴァーの小説だかなんだかの台詞。
「俺にだってなりたいものがあった。俺のような人間にはなりたくなかった。君はもう……俺を愛してないのか? (俺を)愛することもないのか……。なら、俺は存在しないも同じだ。どうでもいいんだ」
この愛されることへの執着。愛される者になることへの執着。
愛することには無頓着。
閉鎖的で境界がぼかされてるってのは、子どもの心そのまんま。
小さな世界で、親にわがまま言って通用すると思ってる子どもの心そのまんま。
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