洞窟を潜り抜けて外へ出ると、健人の一番好きなコバルトブルーに街が灯っている。
「いいぞ、もっと泣け。痴話喧嘩して出てきたように見えて都合がいい」
「じゃあもう泣かない」
周りを見渡しても二人が見つからない。タクシーを拾ってラブホ街に向かうはずだろうと推測した健人は、その方角へ駆け出した。角を左に曲がると、タクシーに乗り込もうとする二人を発見した。後ろを振り返って数秒間、曲がってきたばかりの角を見つめているが、萌が付いて来ない。もう数秒待って、ようやく萌の姿が角から現れた。スネた顔をして、わざとゆっくり歩いている。
「おい! 走れ! タクシー乗るぞ!」
萌は嫌々そうに走り始めた。健人は赤いタクシーのドアを自分で開けて飛び乗った。
「運転手さん、あの黒いタクシーを追って欲しい。もう一人来るから発車の準備しといて!」
「あいよ」
その間、相手のタクシーのナンバーを見てICレコーダーに録音しておく。走ってきた萌を、ドアを開けて迎え入れた。
「萌、よくやった。運転手さん! 急いでくれ!」
道が込み合っていてほぼ徐行だが、こちらは一方通行の三車線の左側で、向こうはすでに右車線に移動している。真ん中車線に二台の車があって、車体の後部が辛うじて見えるくらいの距離まで離れてしまっている。
運転手がメーターを回して発車させた。右車線の方がスピードが出ている。
「何とか右車線まで行けない?」
「いや、車間ないから厳しいねえ」
二人のタクシーがジワリジワリと離れていく。
「お客さん、これ無理だね。信号に引っかかるわ」
信号の色が黄色になる。二人のタクシーが黄色の信号を通過した。こちらは一向に進まないまま、無慈悲にも信号の色が赤になった。
「あーあ、行っちゃった」
「あーあ、じゃねえよ。てめえのせいだ。俺は蓮に電話するから、金払っておけ」
健人はもしもの場合を考えて、先ほどスカイグレイにいた時、親友で同居人の蓮にひとひら駅前通りで車で待機しているようスマホで頼んでおいたのである。
「蓮、びふっちまった。黒のタクシーで、ナンバーは『ひとひら300の な、の3536』。駅前通りの右車線を木蓮公園の方まで走ってる。通ったら頼む」
「メモった。来たら追いかけるけど、駄目だったらごめん」
ここは蓮の運転技術を信頼するしかない。
健人と萌はひとひら駅前通りを木蓮公園駅方面に向かって歩き始めた。
「健人さん、タクシー代、六七〇円だから!」
「うっせえなあ、あとで払う!」
「今! 絶対忘れるでしょ!」
「分かったから!」
健人が探偵道具の入った革製のショルダーバッグから財布を取り出そうとした時、蓮からの着信が鳴った。
「ごめん、健人。何かそれっぽいの通ったんだけど、ナンバーちゃんと見えなくて確信持てないから追わなかった」
「はあ? 一応追えよ」
「いや、他に確信持てるタクシー通ったら困るかなと思って。で、結局、全部違うナンバーだった」
「はあ、分かったよ。もう今度にする」
運転技術は備えていても、判断力や決断力に欠けているのは致命的だなと思い、電話を終えた健人はようやく諦めがついて機嫌を取り戻した。
「良かったな。スカイグレイに戻って飯食えるぞ」
「やった!」
萌は笑顔を取り戻し、タクシー代のことすらもう忘れている。もし、ラブホに着いていたら一緒に入る可能性があったことも、黙っておけば考え及ばないだろう。
「結局、どうなったんですか?」
美咲が尋ねてきた。
「びふった。尾行に失敗したってことだ。まあよくあることだから別にいい」
「尾行って簡単なものかと思ってましたよ。こんな人通りの多いとこだと特に。でも実際やってみると、すぐ見失いそうになりますね」
「それな、皆初めはそう思うんだよ。人間ってのはどう動くか予測が付かないから案外難しい」
萌はまだ沢山残っている料理全種類を満遍なく自分の皿に盛っている。モツ鍋にはすでに火は通してあったが、まだ誰も手を付けていなかった。健人はガスコンロのスイッチを回して、丁度、席を通りかかった店員にハイボールを頼んだ。料理よりも、酒を飲んで泥酔しようと決め込んでいた。
もう健人たちは調査のことは忘れて、高校時代の思い出話や美咲と萌の結婚生活の話に花を咲かせた。
酒も進んで、四人の発言が大胆になる。
今でも怖いが、初めて健人を見た時は凄く怖かったと三人が口を揃えて言う。
私服の高校とはいえ、ロン毛に髭にサングラスで、ピアスにサンダルにジーンズというヒッピーのようなラフな格好で登校するのは、健人以外にいる筈がなかった。
以来、変わらぬファッションスタイルを貫いている。
ハイボール五杯を飲み干した健人はすっかり泥酔していた。家庭がある女性陣二人のことを羨ましく思い、自分の情けない仕事を愚痴り始めた。
「てかよ、俺、探偵になってこんな地味な仕事やりたくない訳な。もっとでっかいこと出来ると思って始めたのに、来るのは浮気調査か、被害妄想激しい奴の盗聴器の発見依頼ばっか。そもそもよ、浮気なんてどうでも良いじゃん? 恋人が誰とヤろうが何も俺は思わねえし。そんな下らないことに執念燃やすなんて愚か者だよ、お・ろ・か・も・の。お前らもそう思わね?」
問われた三人は、健人から目を逸らしたり、顎をかりたり「うーん」と考え込んだり、箸で刺身を掴み損ねたりした。健人は右手の人差し指と薬指で交互にテーブルを叩いて返事を待っている。
「私は……、ちょっと嫌かな。セックスってやっぱり好きな人同士でするものだと思うし」
美咲の全うな返答に安心したのか、萌もそれに追随する。
「私も嫌だ。旦那が浮気したら許せないし、他の女とヤったなんて考えたら、汚くてもうセックス出来ない。健人さんはオカシイ」
「大輝はどうよ?」
「俺も嫌っすね。でも自分が浮気するのはアリっすよ。矛盾してるかもですけど」
これには女性陣が反発し始めた。最低。不潔。男のクズ。健人さんの方がマシ。ありとあらゆる罵声が飛び交った。
「じゃあ、皆、浮気は許せないんだな?」
健人は何か重大なことを確認するように、語気に鋭さを込めて問いかけた。酔っぱらった三人は威勢良く、当然、当たり前、言うまでもないでしょ、と答えた。
「よし! じゃあこの調査は浮気を許せないお前ら三人がやれ。もうほとんど分かってるんだから、あとはラブホから出てくる画像か動画さえあればいい。浮気を許せないんなら、出来るよな?」
美咲と大輝は困惑している様子だったが、泥酔している萌だけは、許せないからやる、証拠写真を撮って健人を見返してやるのだと自信満々に右手を上げた。
「ほら、萌は正義感が強い。他の二人はどうなんだ?」
「まあ、萌一人にやらせる訳にはいかないし……」
「健人さん、上手すぎっすよ。報酬ちゃんとくださいよ?」
「もちろん、報酬は全部お前らで分け合っていい。道具は貸すし、隠し撮りの方法も教えるから心配すんな」
健人はテーブル上に残った皿を重ねて隅に置き、鞄からICレコーダー、ビデオカメラ、単眼鏡を取り出してテーブルに並べた。
「他にもあるっちゃああるんだが、これで十分だろ。ICレコーダーは自分の行動を録音するために使う。ビデオカメラは証拠を撮るためだ。撮り方は後で詳しく教える。単眼鏡は遠くを見るのに使う。双眼鏡だと目立つからな」
皆は身を乗り出して、それぞれの道具を手に取っては興味津々に道具の諸々の箇所を弄くり回している。
「肝心な撮影方法を教えて」
「ああ、そうだな。『腰撮り』っていうんだが、ビデオカメラを腰の辺りに持っていって撮るんだ。液晶の角度が変えられるから、遠くでモニターを見ながら撮影が出来る。スマホだとこれが出来ない。あとは練習した方が早い。調査書のテンプレは今度Eメールで送る。大丈夫そうだな?」
ここまで来たらもう断れないと言いながらも、自信ありげに三人が大丈夫だと声を揃えた。
干からびた雑炊を萌が平らげて、飲み会はお開きとなった。
やりたくない仕事を後輩たちに押しつけることにまんまと成功した健人は、上機嫌であるまま駅の階段を下りた。
三人は家が近いので、一緒にタクシーで帰宅することとなった。
ひとひらの地下鉄駅はどこも古臭くて、特にあるまま駅のホームは、酔っぱらってマナーを失った人たちが捨てた飲食物などのゴミ、酔っぱらいが悪乗りして描いたであろうポールの張り紙への落書きなどで汚れている。掃除もロクに行われていないのである。
ひとひら市の地下鉄は他地域と違って私営で、経営している古谷鉄道が赤字だからこの惨状だという。他の街では人身事故を防ぐためのホームドアを設置しているというのに、ひとひらではどの駅にも設置されていない。
ご機嫌の健人はその貧乏さをバカにする悪戯っ子のように、広げた両腕でバランスを取りながら点字ブロックを越えたホームすれすれの部分を歩いていた。
「まもなく、二番ホームに倖方面行きの列車が到着します。ご注意ください」
場内アナウンスでさえ無視して、今度は片足でバランスを取り始めた。その時、通行人とぶつかって思い切りバランスを崩した。
あ、線路に落ちる、警笛が鳴った、轢かれる、お陀仏、と思った瞬間、得体の知れぬ視線を感じて、地下鉄の先頭車両の窓に目を向けた。
眉間に皺を寄せた男が鋭い眼差しで健人を睨んでいる。
その眼光が忽ちに酔いを覚まさせて、健人はすんでのところでホーム側へと体の重心を傾けた。右肩を強打こそしたが、線路に落ちなくて済んだ。
しかし、不思議な感覚だった。
健人はあの運転士の眼光によって助けられた気がしたのである。
一瞬見ただけなのに、やつれながらも気高さと威厳を感じさせる運転士の顔が脳裏に深く刻印されて離れない。意識もしていないのに、どこか意識的に覚えてしまったような、これまた不思議な感覚だった。
あの男は、あの眼光は一体……?

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