1-6 神の力/人の力(遥)

 翌日、遙は自宅から徒歩五分のゲストハウスのように大きな二階建ての家の玄関前に来ていた。黒板調の立て看板に、黄色いチョークを使って「川端探偵事務所 どんな調査でもご相談ください。料金要相談」と女性の丸文字で書かれてあるのを思い出して。まるで飲食店の看板のようだから、よく記憶に残っていた。
「木蓮荘」と、入口の上に書かれてある。チャイムを押すのには勇気が必要だった。
 昨晩『入口と出口の哲学』を無我夢中で読み終えた遙は、本の最後の方に奇妙な箇所を発見した。「です・ます調」の文体も、その部分だけが「だ・である調」で書かれてある。それは以下のような内容だった。

 ある箴言

 腸内細菌は人の健康状態のみならず、性格にも影響を及ぼして、変化させる。
 人が環境の性格を変えるように、腸内細菌もまた人の性格を変えるのだ。
 反対に、環境の性格もまた人の性格を変えて、人の性格が腸内細菌の性格を変える。
 世界は循環しているのである。
 女性が出産する際、膣を通して、腸内細菌を子に与えるように、紡ぎ、紡がれることで、世界は循環を保ち続けているのだ。

 ある実話

 人の大腸をある最適な環境で発酵させたものを食すと、世界最古の細菌を腸内に住まわせることが可能になる。
 その原初の細菌は、宿主に「神の力(元々はアラビア語で「قوة الله」である)」を与える。
 神の力が覚醒するのには、数年の年月がかかる。覚醒した神の力の能力者はその代償として、頭痛やめまい、筋肉の痛み、神経衰弱、疲労感などの反動に襲われる。
 現代科学でもまだ未発見の真実を、私は発見したのである。
 神の力の使用は大腸に負担を与える。
 最古の細菌は腸内を荒海のように過剰に活動させて、その腸壁に穿孔を作る。一度、落ち着いても、この過剰活動は繰り返される。そして徐々に能力者は衰退していく。
 治療法はない。
 神の力(قوة الله)は呪われた力。
 その使い手は、ただ滅びゆくのみである。

 以上。
 到底信じられる内容ではなかったが、書かれてあるのは明らかに自分の症状だろう。だが、神の力なんて大層なものを使えた試しがない。もしかすると、母が神の力の使い手で、遙はその腸内細菌を出産の際に受け継いだが、そうした過程では能力が顕現しないのかもしれないと遙は推測した。もしそうならば、病気になっただけで損したなとも少しだけ思った。いずれにせよ、滅びゆく運命だということは分かった。
 母は寿命を全う出来ないことに悲観して自殺した、あるいは、その能力故に誰かに殺された……。
 木蓮荘に来たのは、母の死について探偵に調査してもらおうと思ってのことである。しかし、神の力の話などしたら変人扱いされるし、かといってその前提がなければ具体的に何をどう知りたいのか説明するのも不可能である。

 駄目で元々だ。
 勇気を振り絞ってチャイムを押した。
「はい」
 若い女性の声だ。
「あ、すみません。探偵の調査お願いしたくて来たんですけども」
「ちょっと待っててくださいね」
 ドアが開いて出てきたのは、二十代前半くらいの女でも見とれるほどのお洒落な美人だった。勝ち気そうではあるが、目が大きく、伸びた前髪を右側に流して、左耳には星柄の大きなピアスをぶら下げている。派手目な化粧で、あまり自分が関わってきたことのない人種の女性だ。
「初めまして。寺原杏と言います。どうぞ、お入りください」
「あ、私、藤井遙って言います。よろしくお願いします」
 杏の後ろを付いていくが、歩き方も美しくてモデルみたいである。遙は居間に通された。
 その内装は立派なもので、天井が高くて、インテリアも高級そうなものばかりだった。ソファがテーブルを挟んで二つあり、奥の方に座るよう案内された。ラベンダーの芳香剤の落ち着く香りがする。杏にコーヒーを飲めるか聞かれたので、飲めると答えた。が、答えてすぐに、飲めるけど、飲むと胃痛と吐き気が出そうだなと気付いた。
「すごく立派な家ですね」
「そうでしょ。ここの家主が金持ちなんですよ。探偵やってる人は貧乏なんですけどね」
 猫模様でお揃いのコースターとマグカップがテーブルに載せられた。
「待っててくださいね。もうすぐ来ますから」
 杏はドアを開けっ放しで居間を出た。
「おい、てめえ、早く来いや、客待ってるだろ」
 どうやら二階へ上がったようだが、遙に対する態度とは全く違う荒々しい声を上げている。

 大画面のテレビを見ながら待ち続ける。ひとひらのローカル番組が収穫祭特集を放送している。その時まで大丈夫だろうか……。
 一階へ駆け下りてくる足音が聞こえる。
 開いたままのドアから顔を出したのは、髭もじゃで長髪の、サングラスをかけた体格の良い男性だった。そのサングラス越しに目を合わせた時、遙は今まで体験したことのない感覚を抱いた。体調不良があることも忘れて、何か別のことに夢中になっていくような、不思議な感覚を。
「お待たせしました。川端健人です。よろしく」
 健人が大きな右手を差し出してきたので、遙は立ち上がって握手に応じた。
「で、依頼ってどんな依頼?」
 ソファに深く腰かけてすぐにタメ口を使い始めた健人の風格に圧倒されて、遙は口に出しにくかったが、ゆっくり事情を説明し始めた。
「私の母が十二年前に亡くなったんです。自殺とされているんですけど、もしかしたら他殺かもしれないんです。はっきりとした根拠がある訳じゃないんですけど。それで、昨日偶然、図書館で母が書いた本を見つけて、その本が死んだ年に出版されてるんです。この本です。えっと、依頼というのは、何でも良いから母のことを知りたいんです。私、当時、小さかったから何も分からなくて。本当に何でも良いんです。何か分かればと思って来ました!」
「なるほど」
 健人は本を受け取ってパラパラとめくり始めた。
「あの、お金ってどのくらいかかりますか? あんまりかかるようだったら、申し訳ないんですが、帰ろうかと思ってます」
 健人はまるで聞いていないかのように本を読み続けている。
「久しぶりに面白そうな依頼だ。遙ちゃんだっけ? まあ、お金のことはこの際どうでもいい。お母さんが自殺じゃなくて他殺だったって知りたいんだろ?」
「いや、自殺の可能性も十分あるんです。もう十二年前のことだから詳しいこと見つけるのは難しいと思います。だけど少しでも何か分かればと思って」
「いやいや、俺を誰だと思ってんの? 天才探偵だから。調査してみるよ。何も情報得られないってことは俺に限ってあり得ない。お金のことは、まあ、そんなに心配しなくていい。ちなみに、どのくらいなら出せる?」
 遙は恥ずかしそうに顔を下に向けて、両手の指十本を開いて見せた。
「十万? オッケー。それ以上出させないようにする。あとは契約書に細かいこと書いてサインしてくれる?」
「本当ですか!? ありがとうございます! サインします!」
 少なくとも数十万は要求されると思っていた遙は大喜びで、久しぶりに笑顔になったような気がしていた。
「杏ー! 契約書持ってきてー!」
「今持ってくー!」
 二階から声が返ってきて間もなく、契約書を片手に杏が居間まで降りてきた。

 その記載欄に書き込んでいる最中「遙ちゃん、凄く良い声だって言われない?」と健人に言われた。
 遙はよく声を褒められることがある。
 本当にそうなのかと声を録音して聞いてみても、自分のものだとは全く思えない上に醜く聞こえたから、以来、褒められる度に恥ずかしい思いをしている。
「たまに。でも自分の声、変だからあんまり言わないでください」
「そう? その声、最高だと思うけどね。あ、依頼内容は便宜上で良いから、母の死が自殺か他殺か調べて欲しい、でお願い」
 遙は声のことには答えずに、指示された通りに契約書の記載欄を埋め続けた。最後に日付を書いてサインした。
「出来ました!」
 健人が受け取って内容を確認する。
「オッケー。家近いね。あれ? いつまでの希望欄空白だけど、どうする?」
「なるべく早く、というのは駄目ですか?」
「良いよ。代筆しとくわ。この本、借りても良い? 調査に役立ちそうだから」
「もちろんです。あ、でも図書館で借りた本だから、一回、二週間で返却しなきゃ駄目なんです。それまでの間だったら」
「了解。お母さんの写真はある? それとお父さんはいる? お父さんから情報って得られる?」
「写真は持ってきました。あと実は……、父には内緒なんです。私がこっそり聞き出せる範囲なら協力出来るんですが……」
「分かった。必要な時はそれで頼むわ」
 はい、と答えて、母の写真を手渡した。健人は写真と契約書を交互に見比べながら、独り言をつぶやき始めた。
「調査対象者は、藤井叶向さんで、風貌は……、娘に似て美人っと。神林樹海で首を吊ってっと」
 随分と軽いなと思うも、こういう案件に慣れているからかもしれない。
「取りあえずはこれでオッケー。進捗情報があったり、情報欲しい時はまた連絡する。遙ちゃん、家近いからいつ来てくれてもいい。ここね、ウチら、マグノリアって呼んでるんだわ。木蓮荘って名前、ダサいから英名でマグノリア。仲間でシェアしてるんだ。なるべく誰にでもオープンな場所にしようって話なんで、何だったら友達連れてきてもいいよ」
「親切にありがとうございます。何かあればまたいつでも来るので」
 健人と杏に見送られて、遙はマグノリアをあとにした。

 昨夜、バイト先のマッサージ店に退職の意向を告げた遙は、残された時間を父のために使おうと決意していた。それが母の著書を読んだこと、健人に会って不思議な感覚を抱いたことで、自分は何か特別な運命にあるのではないか、もう少しでも生きてその運命を知りたいと、すっかり心変わりしていた。
 健人に貸した母の著書はすでに全ページのコピーを取って手元に残してある。著作権的に問題があるとしてもこの本だけは絶対に手放せない。
 神の力のことも健人と対面した時に抱いた感覚も全てを明かさなければならないのだろうか? こんな突拍子もないことを打ち明けるなんてどうしたら出来るだろう?

目次へ