ひとひら競馬場で、山田弘寿《ひろとし》は苛立ちを隠せないでいた。
ナミダミチモクレンの単勝に五万円賭けて、最後までハラハラさせられた挙げ句に勝ったはいいものの、最終オッズが1.0倍という結果を見て、こんな馬鹿げたギャンブルがあるかと苛立っていたのである。
競馬場で日本酒を煽っている自分は、端から見たらただの汚い負け犬のおっさんなのだろう。そう思うとやりきれなかったが、素面のままでいることの方がもっとやりきれなかった。
山田は大腸の奇病と膵がんで余命幾ばくと診断されて、自暴自棄になっていたのである。大腸摘出と抗がん剤治療に一縷《いちる》の望みを託さないかと医師から提案されたが、余計苦しむだけだと突っぱねた。
モクレンのレースで馬鹿らしくなって、その後、大穴ばかり賭けた結果、一レースも当たらないまま最終レースが終わった。
もっと沢山酒を煽りたかったが、胃が受け付けなくて大した飲めなかった。
財布の中にはもう小銭しか残っていない。まだ、帰りの地下鉄代を残しておく理性は残っていた。というよりも、歩いて帰る力なんてなかったから、残しておかないというのは自殺行為だという死への恐怖が山田をそうさせたのである。
右足を引きずりながら何度も後悔する。
しがない小説家として一人で生きてきたことへの後悔。悲しんでくれる人は誰もいない。編集者は所詮、仕事だけの間柄。小説家仲間たちは仲間という名のライバル。現状を伝えられるような人たちではない。
遙か昔のたった一度の恋愛が成就していれば、と思うも、もう一人で大丈夫だと自分から去ったのだから自業自得というものである。それでも彼女が小説を読んで編集までしてくれたから小説家としての今がある。デビュー作と二作目はそこそこ売れた。貴重な編集者との別れを題材にした三作目は最も売れた。
だがそれ以降、元恋人の偉大さが丸分かりになるくらい、売れ行きが伸び悩むようになった。
同級生から聞いた話では彼女はもうこの世にいないという。結婚も出産もして幸福の絶頂だと思われていた時に自殺したという話だ。もしかしたら自分が働いた悪行もその一因だったのではないかと思い、罪悪感をいまだに払拭出来ていない。
しかしどうして、最高傑作になるはずの次回作の構想も終わりかけというタイミングで不幸が襲いかかるのか。もはや書く時間も気力も残されていない。処方された抗うつ剤も、いや、どんなに完璧な魔法の薬物でも、今の自分をゼロまで引き上げることすら出来ないだろう。
帰りたくない。
芝生に散らばった馬券を百枚以上は拾って、当たっていないか、競馬新聞に書き込んだ着順と照らし合わせる。そんな馬券があるはずもなく、貧乏臭いことをしている自分にうんざりする。
気付けば、芝生上にいる客は山田一人。
夜風も冷たければ、近づいてくる男性職員の視線も冷たい。
「もう閉まりますんで」
「足が悪くて。肩を貸してくれませんか?」
誰でも良いから側にいて欲しくて、一人でも問題はないのに同情を誘うような真似をした。どん底、というのは今の自分のことを指すのだろう。
「お気をつけて」
終始無言のまま競馬場のゲートをくぐると、ここから先は自分の仕事ではないと突き放すような態度で一人ぼっちにされた。地下鉄まで、歯を食いしばって歩いた。手すりに掴まって地下鉄の階段を降りた。
地下鉄が来るまでの僅かな時間ですらも、酒を飲みたいと思う。このままじゃあ、病気より先にアルコールで死ぬかもしれないなと、山田は自虐する。
「まもなく、二番ホームに倖方面行きの列車が到着します。ご注意ください」
倖方面の列車に飛び込めば、地獄行きになれるかなと思い、ホームすれすれの部分を歩く。誰かが突き落としてくれないか、あるいは、自分の右足に限界が来て倒れてくれないか、そんな微かな願いを、地下鉄の風があっさりと吹き飛ばした。
定位置に到着した列車に、山田は渋々乗り込んだ。
六人用座席が丸々空いていて、そのど真ん中に座る。席が空いているのに、入ってきても立っている乗客が数名いて、風呂も数日入っていない自分が臭いから誰も隣に座ってくれないのかと邪推した。だが、それは正しい推測なのではないかとも思う。
その時、サングラスをかけた若い男性が駆け込み乗車してきた。
その男を見た時、不思議と彼の方に右腕が伸びた。若者は伸びた腕に気付いて、山田に近寄ってきた。
「おっさん! どうしたの!?」
言葉が出なかった。するともう一度、若者が耳元に顔を近づけて繰り返した。
「おっさん! 聞こえてる!? どうしたの!?」
「生きたい……」
山田は今にも死にそうな、か細い声で答えた。
「おっさん! どこまで行きたいの!?」
この若者の声を聞くと、山田に僅かばかりの力が湧いてきた。ボサボサの髪で、全く剃っていないヒゲ、三日着替えていない服で酔っぱらっている自分は、きっと浮浪者とでも思われているだろうなと感じつつ、余計に気味悪がられるだろうことを山田は薄笑いを浮かべながら発した。
「そうだね……、時間のない世界に行きたいな」
「おっさん、そんなもんはないよ! 結構酔っぱらってるみたいだけど、帰れる? 良かったらウチにくる!?」
この若者はこんな有り様の自分に対しても公平に接してくれている。
「い、いいのかい?」
「良いよ! ガリベンとアバズレがいるけど、それでも良ければ!」
酷いあだ名を大声で堂々と口にするこの若者は……。
「名前は?」
「俺は、健人! け・ん・と! おっさんは!?」
「や、山田……」
「山田のおっさん! 来るってことで良いんだな!?」
「大丈夫。大声でなくても聞こえてるから。じゃあ、具合が悪いからお世話になろうかな」
「オッケー! 木蓮公園で降りるからね!」
健人は大声を止めようとしない。
「まもなく、木蓮公園。降り口は左側に変わります。開くドア、足元にご注意ください」
助かったと山田は思い、何か久しぶりに食べ物を摂りたいという欲求が湧いてきた。一人を免れることの有り難さに、涙の粒をひらりと垂らした。

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