2-6 No.2838(山田)

 心落ち着かせる電球色で灯された、だだっ広い本部一階には清潔感のある受付嬢が一人きり。健人が受付カウンターに腕を乗せて、こちらの要求を突きつける。
「どうも。教祖の三上さんと話がしたい」
 あまりにも単刀直入な要求に受付嬢もたじろいで目を泳がせた。
「お約束は?」
「んなもんはない。ここに困ってるおっさんがいるんだ。腸内細菌が原因で全身蝕まれていてね。教祖が詳しいと聞いたから来た。頼むよ、困ってる人を助けるのが宗教だろ?」
「申し訳ありませんが、先生はお約束のない面会はお断りしております」
 定型的な返事に、健人は山田と蓮に向かってお手上げのポーズを取り、またカウンター側へ振り返った。
「じゃあ、小川沙羅はいる? 約束はしてる」
「あの、どのようなお約束でしょうか? また、お名前を教えていただけますか?」
「デートの約束だ。川端健人って言えば分かる」
「少しお待ちを」
 受付嬢は訝しげな表情をしながら、後ろのドアを開けて入っていった。

 待っている間、本部内を見渡しておく。天井の数あるシャンデリアが蝋燭のように空間を灯しているのだと分かった。
 床一体は海模様で満たされており、今にも沈んでしまいそうな錯覚に襲われる。そんな不安定さを感じさせる足場を見てしまうと、ただ歩くだけのことですらぎこちなくなる。
「ごめんなさい。受付に失礼があったようで」
 受付のドアが開いて、とんでもない美女が飛び出してきた。失礼があったのは明らかにこちら側なのに、相手に非があるように思わせる健人の技量はとてもじゃないが真似出来ない。
「沙羅、久しぶりだな」
「どうしたの? デートのお誘い?」
「いや、今日はこのおっさんを教祖に会わせたくて来たんだ。ある腸内細菌が原因で大腸がやられて、今度は膵臓がんになった。死期が近いんだとよ。教祖、腸内環境のプロフェッショナルなんだろ?」
「どういうこと?」
 現れた沙羅という美女は険しい表情をして健人に事情を尋ねている。
「凄い美人さんじゃないですか?」
 蓮が隣に来てそっと耳打ちしてきたが、その行動も当然だと思う程の美女である。山田は軽く肯いた。
 事情説明が終わったようで「ちょっとお義父さまは体調が優れなくて……」と、沙羅が言うのが聞こえた。
「え!? 教祖の娘さんなの!?」
「義理の、ね。ちょっと聞いてくるわ」
 沙羅は出てきたドアの奥へと戻っていった。
「ちょっと健人、あの美人、誰?」
「競馬場でナンパしたって人。すげえだろ? メンヘラっぽいからヤラせてくれるかもしれねえな」
「本当に羨ましい。紹介してよ」
「紹介したって、お前、まともに喋れるのかよ」
「用事があれば大丈夫だし」
「知らん女に用事なんかあるのか?」
「まあ、ちょっとね」
 こういう場所は盗聴などされていないのだろうかと疑問に思いながら、山田は二人のやり取りに耳を傾けていた。

 沙羅がドアを開いて戻ってきた。
「山田さんだけなら良いって。付いてきてくれます?」
 沙羅は受付のカウンター内からロビーに出て、エレベーターの方へ山田を誘導した。その女性的な細長い爪をした指でエレベーターのボタンを押すと、ドアがすぐに開いて二人で入った。こんな美女と二人きりでいるのは緊張する。激しくなった鼓動の音が沙羅に聞こえないか不安になった。
「山田さん、お義父さまがきっと力になってくれると思うわ」
「だと良いんですが。獣医のところにまで連れていかれたんですよ、健人君に」
 内密にすべき話をこうも簡単に漏らしてしまうのは良くないと思いつつも、美女が笑ってくれそうな話題が他に思い浮かばなかったから仕方がない。
「そうなんですか? 健人らしいですね」
 沙羅は細長い指をした色白の手で口元を覆って笑った。
 三階の廊下に出ると、また別の緊張感が襲ってきた。教祖の三上雄平という人物はスマホで確認したところ、非常に厳粛そうな顔をしている。何か叱責されないかと不安を抱いたのである。

「このドアの先にいます。見た目は怖そうだけど、優しい人だから安心してくださいね」
 沙羅はドアを三度ノックした。どうぞ、という声が中から聞こえてきたのを確認して、沙羅がドアを引き、山田を先に招き入れた。
「初めまして。わたくし、三上雄平と申します」
 入ると同時にスーツ姿の三上は立ち上がり、デスク越しからこちらまで出てきて握手を求めてきた。山田も手を差し出すと、三上は温かいその両手でこちらの手を握ってきた。
 ネットで見る厳粛な表情とは違い、目尻を下げた笑顔は非常に温厚そうで、声音も爽やかだ。宗教団体の教祖というよりは、大企業の社長のように映る。クロリスの会社の社長時代の名残なのかもしれない。
 沙羅が後ろから入ってきてドアを静かに閉めた。
 山田と三上が対面する形で座り、事情を説明し始めた。
 ある腸内細菌が元々は原因だったらしいことから、膵臓がん発症に至ったことまで、獣医に診てもらったことを除いては洗いざらい話した。その間、三上は腕を組みながら黙って肯いて聞いている。
 もうこれ以上話すことはない。

 少々の沈黙の後、三上が口を開いた。
「自分が人の意志を何かの能力で動かしているという自覚は?」
 その言葉に、山田は驚きを隠せなかった。
 血液が体内を駆け巡ったのだろうか、鼓動が激しくなり、体温の上昇も感じる。きっと、アドレナリンが大量に放出されている。「真っ直ぐな少女《ストレイトガール》」のことに間違いない。何か因果関係があったのかと、今まで考えもしなかった自分を腹立たしく感じたが、もし、考え及んでいたとしても、誰にも理解されなかっただろう。
 今、目の前にいる理解者が神々しく輝いて見えた。
「あ、あります」
 まだ信じられないといった様子で、山田は恐る恐る口にした。
「たとえば、どういう時に?」
 ごく普通のことのように三上は態度を全く変えず、淡々と問うてきた。
「麻雀の時です。僕が念力を込めると、アタリ牌を持っている人が一発で振ります」
「なるほど。その他には?」
 そう問われても、山田にはすぐに思い浮かぶことがなかった。能力の影響か、そうでないのか、判断が付かない事案が多いのだ。
「能力なのかは分かりませんが、念力を込めると人が素直にお願いを聞いてくれるような気がします。でも、そうでない時もあるから、能力なのかは分かりません」
「では、昔、何かの声を聞いたことは?」
 この人は全て知っているのだと山田は確信した。昔、山田には何語かも判別が付かなかったが、変な外国語の声を聞いて、自分には何でも出来ると錯覚してしまうくらいの爆発的なバイタリティーが湧き出てきたことがある。そのバイタリティーを利用して一気に小説を書ききったのだが、それを機に抜け殻のようになった。決して忘れられない体験ではあったが、小説家にはそういう人知を超えた力が稀に訪れるとあちこちで耳にしていたから、自分の体験もその一種だと思い、大して気にも留めていなかった。小説仲間に話したくらいである。
 三上にそう説明した。
 彼は立てた両肘に顎を乗せ、口調をわざとゆっくりにして語り始めた。
「まず、結論から言うと、山田さんは治ります。原因の腸内細菌については我々が研究済みで、どういう性質なのか分かっている。膵臓がんも気にしなくていい。その腸内細菌は一度滅びた生命。滅びの原理については熟知している。上手く扱えば、膵臓がんですら滅ぼす細菌なのです。そして山田さんは人知を超えた高次の存在と交信出来る人間。喜んでいい。あなたは選ばれし人間です」
「選ばれし人間……」
「左様です。ただ、勿体ないことにその自覚がない。しかし、それも今日までです」
 全て知っている三上にそこまで言われて誇らしく感じた。やはり自分は最後の傑作を書き上げるべき人間なのだと、すっかり有頂天になっている。
「で、どうすれば治るのでしょう?」
 最も重要なことも後回しにしてしまうくらいに舞い上がっていた。
「沙羅、持ってきてくれ」
 命令を受けた沙羅がドアの外へ出ていった。何が出てくるのか、山田にはもう期待感しかなくなっていた。

 ドアが三度ノックされる。
 戻ってきた沙羅はクロリスを五つ持ってきた。六十五ミリリットルしか入らないプラスチック製のベージュ色の容器を見て、まさかこれを飲んで治るとでも言うのかと、山田は心許なく感じた。
「がっかりしましたか? これはクロリスではありません。我々が何年もの年月をかけて開発した治療薬です。一日一本で構いません。体調はすぐに良くなるでしょう。しかし、これは一時凌ぎの治療薬。本当の治療方法は別にある。その治療を行うにはまだ早いので、それまでの間はこれを飲んでいてください。すでにお気付きでしょうが、原因の腸内細菌と能力には因果関係がある。その仕組みまではまだ詳しく分かっていませんが、関係があることは我々も突き止めています」
 沙羅が山田の前に五本置き、一本飲むように促してきたが、手を付けるには抵抗があった。変な毒物が混入されている危険性は否めない。しかしこの密室での圧力に抵抗するのは困難だったし、元々放置しておけばなくなる命だと思い、封を切って一息に飲み干した。確かにクロリスのような味ではなくて、普通の乳酸菌飲料を濃くしたような味だ。
「すぐに効果が現れてくると思います。五日間飲んで、なくなったらまたここへ来てもらいたいのですが、大丈夫でしょうか?」
「勿論、大丈夫です」
「それと一つ、守ってもらいたいことがあります。お連れのお二方、そしてそれ以外の人にもこのことを秘密にしてもらいたいのです。何せ、こうした人知を超えた力というのは世間に理解されない。それにこの治療薬については海の教団内でも機密事項なのです。他の人々には『治る可能性があると言われたが詳しくは分からない』程度に留めてもらいたい。誓ってもらえますか?」
「分かりました。誓います」
「では、五日後、お待ちしております」
 沙羅がナンバー式の小型金庫に治療薬四本を入れた。五日程度なら常温保存でも問題ないので、とにかく他の人に見られることのないよう気を付けて欲しいと念を押された。ナンバーは二八三八。「双葉町、三葉町」の並びだと教わった。
 沙羅に連れられて、地獄から天国へ、と表現しても大げさではないくらいの弾んだ気持ちでエレベーターに乗る。
 薬が効いてきたのか、意識が冴えてくるような感覚がする。沙羅の横顔とその奥のエレベーターの海模様を見て、遙か昔のことを山田は思い出した。
「叶向さん……」
 山田は、声には出さずに口だけを動かした。

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