2-8 誘惑(沙羅)

 静謐なロビーで、山田の陽気な笑い声だけがソファから響き渡っている。健人が、山田の顔色がだいぶ良くなっていると指摘した。薬の効果はてきめんのようだ。沙羅にもハイテンションで礼を告げてくる。
「沙羅、蓮が話があるってよ」
 にやけ顔の健人がその背中を叩くと、蓮が恥ずかしそうに会釈してきた。
「行こうぜ、おっさん。蓮、車で待ってるわ」
 健人は車の鍵を掲げて、山田と共に去っていった。わざわざ二人きりのシチュエーションを作ってもらうまでもなく、もう初対面から蓮が自分に好意を抱いていることに沙羅は気付いていた。何せチラ見してくる頻度が高すぎる。

「蓮君? 話って何?」
「あ、あの、山田さんが治るかもしれないって本当なんですか!?」
 山田からすでに聞いていることをいちいち確認してくる面倒臭いガキだなと思いながらも、沙羅は笑みを作って「可能性はあるけど、どう転ぶかはまだ分からないですよ」と答えた。
 すると、蓮は鞄から一冊の本を取り出した。
「あの、この本のことで質問があるんです」
 その本のタイトルは『入口と出口の哲学』で、著者名は……、藤井叶向。やはり嫌な予感は的中していたのだ。
「この本がどうしたの?」
「ここの部分が変なんです。もしかしたら、腸内細菌のことだから、海の教団の人、詳しいかなと思って……」
 語尾が尻すぼみのオドオドとした喋り方に内心、苛立ちながら本を受け取った。蓮が言った変だという箇所には、قوة اللهのことが書かれてあった。
「この本をどこで?」
「ひとひら市図書館って聞きました」
「聞いたってことは誰が借りたの?」
「依頼人です。藤井遙さんっていう女性。著者の娘さんです」
「へー。健人や山田さんはこの本読んだの?」
「いえ、健人が僕に読めって渡してきて」
「健人らしいわね」

 沙羅はわざと笑って見せた。
 このクソガキ。この本は百冊だけあの女が秘密裏に自費出版したもので、それを知ったお義父さまが全て買い占めようと、販売している書店を出版社に問い合わせた本なんだ。
 九十九冊までは買えたけど、あと一冊が見つからなかった。
 一冊程度なら問題ない、夫にさえ秘密で出版しているんだ、親族に贈るはずもない、普通に誰かに買われただけだろうとお義父さまは安心していた。まさか、その一冊が図書館に寄贈されていたなんて、お義父さまも想像だにしなかったのだろう。
 本を見るフリをして私の指をジッと見ているこいつの小汚い性欲にもイライラする。本を取り上げたかったが、何か理由を付けても借り物だから渡さないだろう。

 どうしたら健人や山田に読ませないように出来るか?
 沙羅は読んでいるフリをしながら持てる頭を総動員して一心不乱に考え抜いた。歯を食いしばり、本を持っている手の平がべとついてきた。
「この本、お義父さまなら分かるかもしれないから、一日だけ貸してくれない?」
 駄目元でまずは様子を伺ってみる。
「いや、すみません、それすると健人に怒られるんで……」
「じゃあ、コピーなら貰っていい? あと、ちょっとだけお義父さまに見てもらってもいい?」
「それなら大丈夫です」
 上手くいきそうだと思い、沙羅は受付の奥の部屋にあるコピー機で一応全ページをコピーしようと考えた。
 あとで報告すれば良いだけなので三上に見せるまでもない。

 見せに行っている時間分を考慮に入れてゆっくりとコピーしていると、健人のことばかりが頭に浮かんでくる。
 新興宗教の教祖の娘でも彼なら気にしないだろうが、立場ある人間なんだからまともな相手を選べと海の教団の幹部側が煩いだろう。服装や持ち物にもいちいち口を挟んでくるくらいだ。もし健人に特定の相手がいても、容易く奪えるという自信はある。が、健人に沢山変わってもらわなければ、交際自体が許されない。頑固そうだからあの服装も言葉遣いも職業も改めるつもりなどないだろう。健人を変える自信まではなかった。

 そろそろ良い頃合いだろうと思い、ロビーに出て、ゆっくりと蓮に近づいていった。
「蓮君、ありがとう。お義父さまに見せたら、とても貴重な資料だって分かったわ。これで私たちの研究が進む可能性が高いの。そこでお願いがあるんだけど、この本のこと、数日は秘密にしておいてくれないかな? 健人にも山田さんにも。万が一、他に漏れたら研究が先に発表されてしまうかもしれない。山田さんを助けるためにも、それだけは避けたいの」
「え、そんなに貴重な資料なんですか!? はい、秘密にしておきます」
 これだけでは約束を破る危険性が高まったかもしれない。山田はともかく、娘からの依頼を受けている健人には言ってしまいそうだ。
「本当? ありがとう、蓮君」
 蓮の頬にキスをして「二人だけの約束だよ」と、耳が感じるくらいの吐息で耳打ちした。蓮はビクっと体を震わせた。
「海の教団流のお礼のつもりだったけど、嫌じゃなかった?」
 蓮は顔を真っ赤にして「とんでもないですとんでもないです! 凄く嬉しいです!」と、手の平をこちらに向けて左右に激しく振り続けている。
 もう一度耳打ちする。
「私、年下の子、好きなの。健人には言っちゃ駄目だよ。嫉妬するから」
 また蓮が体を震わせている。
「そんなそんな! 本当に秘密にしますから大丈夫です!」
「なら良かった。ねえ、それとは別に、今夜、秘密で会えない? なみだみち牧場の息子さんなんでしょ? こないだ競馬場で健人と会って、競馬に興味が沸いたの。色々教えて欲しいな」
 蓮は迷うことなく、大丈夫、断れる訳がないと答えた。
 こういう時のために用意している使い捨て携帯の番号だけ教えて、こちらは何時でも良いので都合の良い時間になったらかけてくるよう伝えた。
 健人が二人きりのシチュエーションをこしらえてくれたおかげで助かった。
 とはいえ、やりすぎかとも思い、一種の賭けではあるが、ここまでしたのだ、きっとこのガキも約束を守るはずだろう。
 少なくとも、今日の夜まで保てば良いのだ。
 残念だけど、今日の夜まで保てば良いのだ。

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