ジューッという美味しそうな音を響かせて運ばれてきた熱々のハンバーグから飛び散る油を防ぐために、蓮はナプキンを目の前に大きく広げた。そのナプキンの先には、黒いワンピースを着た沙羅が確かにいる。
面と向かうと上手く喋れなくなるため、カウンター席のある値の張るイタリアンにしようと提案したのだが、沙羅はそんな高級なところでなくていい、お勧めのハンバーグ屋があるからそこで八時に待ち合わせようと段取りを組んでしまった。ひとひら北部にあるショッピングモールからすぐの店である。
案の定、あまり目を見ては喋れないが、沙羅が続けざまに質問してきてくれるので、蓮は答えるだけで良く、想像以上に苦でないどころか、むしろ、二度とない機会が訪れたのだと感じていた。
健人との出会い、マグノリアというシェアハウスを借りていること、健人が依頼人に惚れ込んでいること、サラブレッドの一生、競馬の予想方法など、全て聞かれたことを喋っているだけだが、沙羅はどれも楽しそうに聞いてくれる。
ジューシーなハンバーグの隅を、フォークとナイフで切り落とした。その切れ目からも大量の肉汁が溢れ出てくるものだから、薬の副作用と喋ったことで渇き切っていた口の中も、流れる涎でもう止まらない。
『入口と出口の哲学』の重要箇所について話したいというので持ってきたが、それよりもまず蓮と話したいという。本は鞄に入ったままである。緊張しすぎないか不安だから薬も一緒に鞄に入っている。
しかし、こんな美人が自分に興味を持つなんて何か裏があるのではないか? それとも健人の言うように沙羅はメンヘラで、年下を食って遊ぶのが趣味なのかもしれない。後者なら、望んで食われたいものだ。
「蓮君、海好き?」
「海、ですか? 好きですよ。毎年、ラピスラズリビーチよく行くし、収穫祭もひとひらに来てからは毎年行ってます」
「もう立派なひとひら市民だね。今からラピスラズリビーチ、一緒に行かない?」
「え? 今からですか? 僕は良いですけど、寒くても大丈夫なんですか?」
「車に毛布もレジャーシートもあるから大丈夫」
「それなら大丈夫そうですね。沙羅さんが風邪引かないか心配で」
「あら、優しいのね」
沙羅は手で口元を覆って笑った。
骨格からしてその手は完璧だ。ミルクを思わせる白い肌には、産毛一本生えることすら許されないオーラがある。バランスの整った薄紅色に輝く爪は、どの指のものも素晴らしくてどんな宝石よりも尊いのだと蓮に思わせる。画像に収めてずっと眺めていたくなるくらいに。可能なら、ずっとその手を直に触り続けていたいくらいに。
お互い残さず食べ終えて、ラピスラズリビーチに行くということになった。
二人とも車で来ていたが、自分の車はショッピングモールの駐車場に置きっぱなしにして、蓮の車に乗ってみたいと沙羅が言ってきた。これはもう、来る前の妄想通りにゴーラス海近くのラブホ街に行く流れではないのかと内心、興奮と驚きを隠せなかった。
沙羅の車はどれかと聞くと、海外の超高級車を指差した。
その近未来的なデザインの漆黒フロントグリルの中央には、跳ね馬が基調のクラシックなエンブレムが付いている。憧れる理由はそれだけで十分なくらいの高級車である。
蓮はどれだけ高級なのか知っていることを沙羅に告げて車を褒め称えた。
「私はこだわりないんだけど、幹部の人たちが『立場あるんだから良い車に乗れ』ってうるさいの」
凄い、と思うと共に、今まで自分の話ばかりしてきて、沙羅のことを何も聞いてこなかったのが恥ずかしくなってきた。自慢の車でさえ、彼女の車の前では取るに足らないものに見えてくる。こんな車に乗せてしまって良いのだろうか。
沙羅の車から毛布とレジャーシートの入った袋を取り出して、彼女が蓮の車まで運ぶ。持ちますよと言っても、自分で持つから良いと断られた。蓮は助手席側に向かい、そのドアを開いて沙羅に乗るよう手で促した。
「そこまでVIP待遇じゃなくていいよ」
「女性を助手席に乗せるの初めてなもんで……」
拒絶されたようで尻すぼみな返事になってしまった。
本当に初めてなの? と言い、助手席に乗り込んだ沙羅は車内を珍しそうに物色している。杏が何回も助手席に乗っているのを隠したことを後ろめたく感じながら、蓮も運転席に乗り込んだ。無音の密室空間に二人きりというのは、対面する以上に緊張する。足が震えている。エンジンをかけて、急いで、入っているCDの曲を流した。
「何か好きな曲あります?」
「何でもいいよ。蓮君が好きな曲をかけて」
沙羅がどんな感じの曲が好きなのか、考えても想像が付かない。センスを試されているようで悩ましい。結局、自分のスマホと車を繋げて、山田イチオシのBrother’s keeperの『Calling on Mary』を再生した。
「こういうのが好きなの?」
「いえ、山田さんが凄く勧めてきたんですよ。聞いてみようかなと思って」
「へー、あの人が……。意外」
一気に自信がなくなってきて山田に責任を押し付けるような真似をしてしまった。店を出る前にトイレで頓服を飲んでくるべきだった。
ゴーラス海まではそう遠くなく、何度も行っているからナビに頼らなくても行ける。途中、沙羅がコンビニに寄りたいと言い、経路を指定してきた。運良く、頓服を飲める機会に恵まれた。それにしても沙羅は車内で音楽ばかりを聞いており、会話が全くない。こういうのが普通なのかもしれないが、どこか気まずかった。
コンビニに寄った後、ラピスラズリビーチの広大な駐車場に車を停めた。車の数はそこそこあるが、単に置きっぱなしにしているだけのものが大半だろう。やはり外は浜風で冷たい。
ビーチには人影はほとんどなかった。
そもそも海水浴シーズンも過ぎて、明かりがほぼないので人がいるかどうかの見分けが難しい。小さく光っている場所で、人が懐中電灯やスマホを利用しているのは想像がつく。
沙羅は袋を持ちながら黙って浜辺の方へ向かっている。そのやや斜め後ろを蓮が付いていく。普通のデートならビーチでファーストキスをするのが定番なのだろうが、そんな雰囲気になりそうな気配は全くない。
スニーカーで来たから靴の中に砂が入って気持ち悪いし、そのせいで足が重い。
「ここに座ろうか」
袋からレジャーシートを取り出して、下から払い上げるようにして広げた沙羅はその右隅に座り、蓮も座るよう手招きしている。沙羅を真似て隣に体育座りすると、彼女が二人の膝の上に一枚の毛布をかけた。
横目で沙羅を見ると、蒼い目でゴーラス海を眺め続けている。人間の声がない波音だけの幽々たる空間は心まで沈鬱な気分にさせる。
「ねえ、蓮君。ゴーラス海の『ゴーラス』ってどういう意味か知ってる?」
沙羅は毛布から腕を出して高級そうな金の腕時計を見ながら聞いてきた。
「知らないです」
「『ゴーラス』っていうのはラムート語で『声』を意味するの。これって不思議じゃない? 海の声、じゃなくて、海それ自体が声だと思ったんだよ、昔の人」
「不思議、と言えば、不思議かも」
「でね、声って何だと思う?」
「……うーん、波の音とか?」
「違うの。これはウチの教団の教えでもあるんだけど、昔の人は、声を、自分を動かす声、だと考えたの。つまり、意志。意志って自分のものだと思いがちだけど、本当はそうじゃない。海に意志が渦巻いていて、その一部を私たちが預かっているだけ。自由意志なんてないの。意志していると思っているものは、全て勝手に意志させられているだけ」
「あ、それなら海の教団のホームページで読んだから少しだけ分かります」
「読んでくれたんだ。きっとね、ゴーラス海にある意志が、私と蓮君をここに連れてきたんだよ」
先ほどとは一転して、いつの間にかロマンチックな雰囲気が漂っている。心臓が破裂しそうなほど脈を打っている。蓮、勇気を出せとゴーラス海の意志も言っているに違いない。
毛布の中で、沙羅の手に自分の手を重ねた。
その手が冷たい。
「それも意志されてるから、自分の意志じゃないっていうつもり?」
そう冗談っぽく笑い、沙羅は毛布の中に潜り込んだ。何をするのかと思えば、何と、沙羅は蓮のベルトを外し始めた。
「ちょっと駄目ですよ」
抵抗の声を上げてもその手は止まらない。
その後、毛布の中で行われたことは、想像以上に温かくて卑猥な夢の世界だった。
抵抗出来る訳もない快楽。
抵抗はすぐに止めて流れのままに身を委ねた。
腰が砕けそうな快楽の中、蓮は沙羅の胸をまさぐった。
お互いの鼻息が荒くなっている。卑猥な音が響く。
沙羅の「んん……」という甲高いあえぎ声に興奮は高まるばかりである。
もう我慢の限界だ。
蓮はあっという間に果てた。
毛布から顔を出した沙羅が口を拭いながら冷めた目をして蓮を見据える。すぐに果てたことをなじっているようにも見えた。少なからず当惑してしまい、外されたベルトを自分で締め直した。
「出したの、どうしたんですか?」
「んー、飲んじゃった」
沙羅がトボけたような口調で言う。
「ええ!? 汚いですよ!?」
すると沙羅は毛布を蓮の頭に被せてそのまま抱きついてきた。後ろに倒れた蓮にその体重がのしかかる。嬉しいけども少々息苦しい。
「汚くはないよ。蓮君、最後に良かったね」
全くの他人事のように沙羅は言った。最後に、とは一体どういう意味だろう? これでもう会ってくれないのだろうか? やはり童貞をからかって遊んでいるだけなのか?
そう思っていると、毛布の上から首が強く締め付けられた。これは、どう考えても沙羅の力ではない。男の、それも屈強な男の力だ。
「蓮君、ごめんね」
その声には、ぞっとするほど無関心な冷たさが込められていた。息が苦しくて、これはもう殺しにかかってきているのだと確信した。
「あまりこういうことはしてこなかったんだけど……。蓮君は特別だよ? 何か言いたいことある? っていっても、この状態じゃ言葉出せないか。じゃあね。私は帰る」
っていっても、の辺りで、もう声が遠くなっていくのが分かった。絶対にこんな理不尽な目に遭って殺されたくはない。しかし、脚の方にも力が入るのが分かった。毛布にくるまれたまま、脚と首辺りを縛られているのだと分かる。
「声を出すなよ。出しても誰にも届かないけどな」
「本、ありましたよ。薬もある。これ全部飲ませましょう」
その二つの声は男性のものの中でもとりわけ低いものだった。沙羅が変なタイミングで腕時計を見たのは、手下が来る時間を計算していたのかと思った。本を奪おうとしていたとは、道理で必死だった訳だ。
「やめろ」
声を必死に毛布越しに出すが、ほとんど声になっていない。
「こっちに何人いると思ってんだ。諦めろ。冥土の土産に、最期にこの世を見せてやるから」
自分の体が持ち上げられて、どこかへ運ばれていく。
どうやら、ボートか何かに乗せられたようだ。
健人、本当にごめん。俺は本当に情けなくて馬鹿な人間だ。全部伝えておくべきだった。どうかしてたよ。全部話しておけば、きっとこんなことにならず、助けてくれてたよね?
山田さん、どうにかして生き残って俺の仇を討ってください。絶対に海の教団に騙されないでください。小説、書ききってください。最後の大作、面白いことを期待しています。
お父さん、お母さん、期待に応えられなかった俺にも、沢山の愛情をかけてくれてありがとう。金だけ渡せば良いと思ってるだろなんて口答えしてごめんなさい。金の支援も、愛情なのだと今なら思います。
樹、勝手にライバル心抱いて距離を置いてごめん。子どもの頃から何でも出来て羨ましかった。でも、そんなの俺の身勝手な行動だったって思うよ。
沙羅さん……、絶対に良い人でしょ。女見る目ないって健人に言われるけど、見る目あるって俺は思ってる。絶対に悪い人には見えないんだ。全うに生きて、罪を償ってください。
「この辺りで良いか」
男性の声が聞こえて、縛られた脚と首が楽になっていく。
毛布が取り除かれて初めに見えたのは、おびただしい数の星、銀色に輝く満月。それに照らされた暗澹たる雲がのったりと空を流れている。
他に、屈強な若い男が三人、これまた屈強な中年の男が三人、見たくもないがいた。全員が奇妙な指輪を両手の中指に付けている。歪んだ楕円形をしているピンク色のその指輪は山田の腸内の画像を思い出させる。
「この薬、全部飲め。あまり苦しまないように、と指示されている」
中年男性の中の一人が言い、薬とコップを差し出してきた。
「海の教団、の人たちですよね?」
受け取らずに蓮は尋ねた。
「違うな。俺たちは秘密結社/Videoのメンバーだ」
「Video? 海の教団じゃない? どういうことなんですか? 沙羅さんは?」
「知ったところで意味はない。早く飲め。飲まなければ無理矢理飲ませることになる」
このボートの周りを見渡しても沖は全く見当たらない。抵抗しても無駄だと悟った蓮はコップを受け取り、処方された薬を何度かに分けて全て飲み込んだ。直に眠くなるだろうが、この恐怖心の中で果たして眠気が来るのかと不安だった。
「これも飲め。お前が貰っている薬よりも遙かに強力な睡眠薬だ」
コップの中がもう空なので、その薬を唾液で飲み込んだ。
「お前ら、この仕事が終わったら女を買い放題だぞ!」
中年の男性が叫ぶと、他の連中が一斉に大歓声を上げた。
最低な連中だ、女を物扱いするなんて。
そう思っている内に、目の前の景色が残像のように、二重、三重になって見えてきた。姿勢を保っていられなくなって横に倒れ込んだ。これなら眠っている間に苦しまないで死ねそうだ。
蓮の最期に頭に浮かんだのは、杏のことだった。
杏、俺知ってるぞ、爪噛む癖があってそれを必死に隠してること。家族のこと全く喋らないけど、相当辛いことがあったんだろうな。俺なんかより、遙かに。それなのにいつも気丈に振る舞う姿が凄く美しくて格好良く見えた。早く売春から足を洗って、良い人見つけろよ。俺なんかが言うけど、何も遠慮なんてしなくて良いんだ。
良いか?
自分が求めているものを素直に求めて良いんだ。
蓮の目から出た涙が幾つもの道を作って、何度も床に垂れた。
もう目を開けていられなくなって、目を瞑るとそのまま蓮の意識は途絶えた。
「おい、ここに捨てるぞ」
蓮の意志は、ゴーラス海へと帰っていった。

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