3-3 同情のモンスター(杏)

 蓮の遺灰がゴーラス海へ舞い戻った後、今度は健人が灰になった。燃え尽き症候群というのか、寝室で寝込みがちになり、日常生活を送る気力を失ってしまった。体温計で測っても実際に微熱が続いている。
 山田も蓮の死は流石に堪えたようで、寝室で、僕よりも先に逝ってしまうなんてなどと泣いていることが多くなった。海の教団の話を出してもいい加減な生返事しか返ってこなかった。それでも健人よりはまだ元気な方で、その看病をするくらいの気力は保っていた。
 今は自分が何とかするしかない。

 健人からは「マグノリアの家賃、蓮のお母さんが気を遣ってくれて七万で良いと。杏なら大丈夫だろ、頼むわ」とお願いされた。ここまで弱った姿を見せられては、怒ることも出来ない。
『入口と出口の哲学』の紛失の件も遙に言えていないそうだ。おそらく健人は密に連絡を取り合って上手く誤魔化しているのだろう。
 蓮の死に関しては健人と同意見で、何らかの事件に巻き込まれた、もしくは、最悪、殺された。そうとしか思えなかった。健人には秘密にしてあるが、蓮は自殺未遂した時、杏にもよく電話してきていたのである。そんな構ってちゃんが、あんなに唐突に自殺する訳がない。しかも、苦しいとされる入水自殺なんて、言わずもがな、である。
 副葬品の手紙には、知らんぷりを決め込んでしまったが、蓮のファーストキスをいきなり奪って悪かったことを詫びて、天国で良い女見つけてくれよなどと書いた。
 彼は死ぬ時、自分の人生をどう思ったのだろう?
 満足していなかったのは間違いない。
 杏は蓮の死を機に、自分の過去を振り返ることが多くなった。

 小学生の頃、肥満児だった杏は男子の多くが帰りの掃除当番をサボることに腹を立てていつも怒鳴っていた。正義のつもりではあったが、毎日のように夫婦喧嘩が絶えない自宅でのストレスを発散させる行動だったのかもしれない。それはそれとして、その後、杏は執拗なしっぺ返しを食らうようになった。
 休み時間、教室でも廊下でもどこにいても、男子たちは杏を囲んで手拍子をしながら、あんず餅、とリズム良く繰り返してくる。
 同級生たちよりも太い腕で男子たちを殴っても、餅パンチすげーよ、皆も食らってみろよと、今度はその怪力を馬鹿にしてくる。
 担任に相談しても、先に手を出した杏が悪いと言い、全く取り合ってくれない。
 当時は自覚がなかったが、杏はネグレクトに遭っており、服や下着を着替えるのが三日に一回だけだった。男子たちがその事実に気付くと、今度は、杏の服は二枚だけだと馬鹿にしてくるようになった。
 明るくて学級で目立つ存在だった杏も、洋服の件で、当時、仲良くしていた女子から距離を置かれるようになった。また、その事実は、すでに半ば形成されていたスクールカーストでの転落を意味した。大人しくて内向的な女子たちとは気が合わず、彼女たちと一緒に理科の実験をするのは屈辱でしかなかった。当初はまだ仲良くしようとしていたが、やがて、わざと素っ気ない態度を取るようになった。
 そうすると、デブの癖に図に乗っているという悪評が校内に広まり、文字通りふくれっ面の杏は男女共に敵に回して一人になった。
 小学の修学旅行は欠席した。
 両親も金がかからなくて済むと喜んだ。
 次第にイジメは攻撃性と陰湿さを増していった。
 男子からいきなりの跳び蹴りを食らったり、給食を床に落とされたり、上履きの中に唾液のようなものが入って濡れていたりした。
 好意を持っていた男子からのラブレターが上履きに入っていたことがあり、杏は有頂天になったが、それがからかいのものだと知った時、その落胆と傷心は幼くして男性不信を募らせるほどであった。それは非常に根深くて、杏は今でも尾を引いている。
 学校の皆は毎日、服と下着を着替えてくる、買って欲しいと母に懇願しても金がないの一点張り。パチンコや酒を飲む金はあるくせに。
 この時を機に、杏はどうにかして自分で稼ごうと思い立った。
 母に感謝しているのは、ご飯を用意してくれないから自分で料理するようになったことと、自力で稼ごうとする意志を持たせてくれたことだけである。
 ネットのロリコンの掲示板で、スカートをめくってパンツを見せるだけで諭吉が手に入るということを調べて知った。そこで大人の男性と連絡を取るようになり、人目の付かない夜の公園で待ち合わせをした。若くてそこそこ格好いい人が来たのは意外だった。約束通りパンツを見せたら、彼は一人でシゴき出して高々と液体を飛ばした。
 その後、合意していた額の報酬を貰い、自分の好きな服を購入した。
 大人の世界を知って以来、同級生はもちろんのこと、大人たちも、更には両親でさえも内心では馬鹿にするようになった。
 中学では誰とも仲良くする気がなく殆ど喋らなかった。
 小学からの同級生も杏に興味をほとんど失い、たまにからかってくる程度になった。
 痩せれば馬鹿にされないと思い、個人競技の多い陸上部に入部を決めた。結果は忽ちに現れて、一年余りでもうデブとは呼べない体型まで痩せることが出来た。が、一度染みついた印象というのはなかなか変わらないもので、以降もデブ扱いされた。
 三年の頃にはひとひらの女子百メートルハードルの大会で三位になるくらいの実力を身に付けていた。にもかかわらず、砲丸投げで三位かとからかわれる始末。陸上に注いできた力も、浴びせられる心ない言葉の羅列によって殺がれていくのだ。
 高校は、いわゆる落ちこぼれと呼ばれる学生が集まる学校に入学した。
 陸上部には入らなかった。
 その代わりに不良グループに入り、派手なメイクも覚えたし、万引きも繰り返した。売春もこの頃に本格化した。
 もう皆から馬鹿にされる杏ではなく、見た目で恐れられる存在になっていた。
 生まれ変われて、人生の楽しさをようやく実感していた頃、両親が交通事故で亡くなった。道幅の狭い一車線道路で、居眠り運転をしていた大型トラックが対向車線をはみ出してきて正面衝突したのである。即死だった。

 自分が幸福を味わえば、他人に不幸が訪れる。
 父方の叔母が心配してくれて杏を家に住まわせてくれたのだが、その息子、彼女にとって一歳上の従兄が性的な目でジロジロと見てきた挙げ句、居候で肩身が狭いことをいいことに高校卒業間際になって手を出してきた。拒んだが、もうこれ以上は居られないと思い、卒業を機に一人暮らしを始めた。
 手っ取り早く稼げるキャバクラで働き始めたのだが、あまりにも人を騙しているような罪悪感に襲われて、今度は高級風俗店で働くようになった。精鋭揃いの店の中でも杏は大人気だった。ルックスだけではなく、そのサービス精神の旺盛さ故にナンバーワンを何度も獲得したのである。
 この店で、杏は健人と出会った。
 泥酔状態で来て、せっかく金を払っているのに寝ると言い出した健人に対して、こちらは仕事だから相手をしなければ怒られるとシャワーへ説き勧めて、その後、口でしている最中に彼はそのまま寝た。こんな客は今までいなくて屈辱を味わった杏は、プライベートでのやり取りが禁止されている店にもかかわらず、健人と連絡先を交換した。
「何で連絡先知りたいの? もう来ねえよ?」
「だって仕事が終わってないままだもん」
 当時はまだカマトトぶっていた。

 何としてでもこの男に興味を持たせてやると思い、プライベートで、あるまま駅を出て初めて見えた色のお洒落居酒屋、エバーグリーンでデートした。
 その帰り、マグノリアに来ないか? と誘われて健人に付いていった。途中、急な雨が降ってきて折りたたみの傘に二人で入って肩を寄せても全くなびく様子はない。しかし、マグノリアの寝室に入ると体を求めてきたので応じた。その相性は良いなと感じたが、それだけではなく性格面でも馬が合った。正義感の強さが災いしてイジメられた杏にとって、健人は正義の味方を守ってくれる頼れる存在だった。
 以来、健人と蓮とマグノリアで過ごす時間が多くなり、立地も建物も良くて快適なのでマンションの契約を解消して三人で住むようになった。

 他にも健人や蓮の友人、健人の依頼人が頻繁に訪れ、親密な交流の場となっているマグノリアでようやく全うな人間関係を築けるようになった気がしている。蓮とだって絶対に仲良くなれないと思っていたのに、いつの間にか親友になれた。
 磁石のように人と人を繋げるマグノリアは、住んでいることを誇りに思える貴重な空間だ。
 健人ともその磁力によって恋人になれると期待していた。
 体の関係はあるけれども、彼は恋愛感情のようなものを全く見せてこない。
 健人を愛している。
 でもそういう姿は見せない。
 愛される価値がある人間だと思うほど自分は自惚れてはいないのだ。
 きっと蓮も同じだ。強がっているか否かという違いしかない。あの正直さが素直に羨ましかった。
 それももう見ることが出来ない……。

 まず、今日はあるままで一件約束がある。
 風俗店にも在籍し続けているが、自分には退廃的な出会い系が似合っている。稼ぎとしては前者の方が圧倒的に良いのに、後者の方に惹かれるのである。
 ホ別イチゴ(※ホテル代別一万五千円)が出会い系の相場で、大体はそれで応じる。交渉すればおそらく料金を上げてもらえるルックスとサービスだという自信はあるが、そうはしない。良い男もほとんどいない出会い系を利用するのは、おそらく福祉なのだ。金も大してない男が哀れにもなけなしのお金で女を買う。それに応えたいという願望が、心のどこかに存在している。
 あるままでの約束の後は、斉藤誠と会う予定が入っている。
 一つ、案件を終わらせれば、健人も立ち直ってくれるかもしれない。
 しかし、斉藤の妻・智子が、旦那の様子がますます異常になってきている、別れることは考えていなかったのに、証拠を掴み次第、一刻も早く離婚したいと言っているそうだ。
 一体、斉藤に何が起きたのか、実際に会って確かめるしかない。

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