3-10 ガラスのコラーゲン(山田)

 海の教団本部の三階中心部は五階まで吹き抜けの教会となっている。
 祭壇の最奥部には深みのある青いカーテンがかけられているのだが、その折り目が規則正しくて美しい。この深みのある青は海を、規則正しい折り目は緩やかな波を再現しているのである。また、その中央部にはエメラルドグリーンの垂れ幕が下がっている。そこには何らかの文字が草書体で書かれているのだが、山田には読めなかった。
 何よりも圧巻なのは、ふんだんにある胡蝶蘭を正確に配置して模造した五つの荒れ狂った高波である。胡蝶蘭の白い花と青い花と緑の茎の部分を計算して並べることで、ここまでダイナミックな荒波を再現出来るということに、皆、驚愕せずにはいられないだろう。海の教団の祭壇といえばこれだという強烈なインパクトを目にした者に与えるはずだ。
 向かって右にあるグランドピアノも左にあるドラムセットもそれぞれ主役級になれる存在だが、秩序立てられた胡蝶蘭の集合体の前では脇役に甘んじる他ない。

 最後列の折りたたみ椅子に座っている山田は、海の教団の祈りの時間に初めて参加していた。
 静粛とした教会内、祭壇前に正座している三上が「海へ、そして神へ」と厳かな声を発し、二度の手拍子をしてそのまま合掌すると、前にいる百名ほど全員も合掌して目を瞑った。
 山田も皆の真似をしながら薄目を開けて前方を見た。
 祈りの時間が相当長くて五分ほどが経過した時、沙羅がピアノを弾き、左側の男性がドラムを叩き始めた。
 合掌をやめて目を開いた信者たちが、流れている音に合わせて歌を歌い始める。キリスト教の賛美歌のように耳当たりの良い曲だ。メロディーラインが全く分からない山田は歌詞カードを見ながら口パクで歌っているフリをした。
 早く終わらないかなと思い、歴史的大作となるはずの小説のストーリーや人物像などの構想を頭の中で練り続けた。
 ピアノの音が最後に途絶えて歌が終わった。
 三上が再度「海へ、そして神へ」と発し、二度の手拍子をして合掌した後、皆も合掌して目を瞑った。
 またもや五分ほどの祈りが続き、沙羅がピアノで三度リズム良く音を鳴らすと皆が目を開けた。この音が終了の合図らしい。それにしても端正な姿勢でピアノを弾く沙羅はなおのこと美しい。
 しかし、祈りの時間は如何にも宗教という感じであり、時間も取られて勿体ない。こういう儀式さえなければ入信しても良いのになと山田は思った。

 尿意が襲ってくる。
 祈りの時間の前にもトイレに行ったのに、根本的治療の話を前に緊張して膀胱が過敏になっているようだ。面会場所はいつも会っている二階の応接室である。今回は沙羅抜きで二人きりだという。それほどまでの機密事項とは、一体、どんな治療なのだろう。痛くなければ良いのだが。
 時間までは少し早いが、小便を済ませた山田は待ちきれなくて二階の応接室前まで来てしまった。中から音が聞こえるので、もう三上はいるようだ。
 山田はその扉を三度ノックした。
 どうぞ、という声が聞こえて室内に入った。
「失礼します。すみません、ちょっと時間が早いですが、待ちきれなくて」
「いえ、こちらも何もすることがなかったので、何も気にしなくて良いですよ。どうぞおかけください」
 もう座り慣れた椅子だが、初めて座った時以上に緊張して腰を下ろした。
「今日は根本的治療の話でしたな」
「はい、お願いします」
「その件なのですが、山田さん、もう分かっているのでは?」
 はて? 三上は何を言い出すのだろう。知らないから話を聞きに来ているというのに。
「その顔では気付いていないようですね。では最近、いつもと何か違う欲求が沸いてきたことはありませんか?」
 健人を見て抱いた三大欲求のようなもののことだと山田は思った。
「……あります。でも、よく分からない欲求なんです」
「分からないのも尤もです。ここにその答えがある。有名な小説だから読んだことあるでしょう?」
 三上はテーブル上の本を手に取ってその表紙を山田に見せてきた。超有名小説なので、当然、読んだことはあるが、遙か昔のことだからもう内容は覚えていない。小説に答えが書いてあるとはどういう意味だろう。
「該当の箇所を読めば、全て理解するでしょう。付箋が貼ってある部分です。是非、読んでみてください」
 三上は小説を手渡してきた。黄色い付箋部分を恐る恐る開くと、読んでもらいたいであろう部分が赤い括弧でくくられている。山田はそれを黙読した。

 また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いただろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。

 読み終えた山田は自分の欲求が何だったのか全て察したが、判明した事実は彼を絶望させるものでしかなかった。
 それを餌だと理解しないでネズミと遊んでいる猫というのが、まさか自分のことだったとは。読み終えているにもかかわらず、まだ読み続けているフリをして頭を整理した。
 いや、にわかには信じがたい。
 三上は嘘をついてからかっているだけではないのか?
 冷静になって考えたらその線の方が濃厚だ。真に受けていた自分が恥ずかしくなる。
「ははははは、三上さん、ドッキリなんてしないでくださいよ。一瞬焦りましたよ。よく考えたらそんなはずがないってすぐ分かりましたよ」
 笑えない冗談をわざと笑ってあげたのに、三上は地蔵のように固い表情をピクリとも動かさない。
「信じられないかもしれませんが、それが真実なのです。彼の片眼だけでいい。しかし、片眼丸ごとでなければならない。それが神の力の使い手を治す唯一の方法なのです」
 彼が本気なのは分かったが、まだ複数ある疑問を全て解消してもらうまでは容易に信じ込むことなんて出来ない。
「失礼。本当だったんですね。何故、治療法をご存じなのですか?」
「昔、神の力を使える女性がいた。そして、あの彼と同じように欲望を抱かせる目をした男性もいた。その二人は接近して、それで治った。だが、女性はその罪深さ故に自殺した」
 自殺するまで追い込まれるなんて、一体どんなことをしでかしてその食欲を満たしたのかと想像すると恐ろしくなった。自分にはそんな大層な真似は絶対に出来ない。この件に関してもう一歩踏み込んだ質問をする気にはなれなかった。
「三上さんの命は大丈夫なのでしょうか?」
「実は山田さん同様に私も危うい。私も助けてもらいたいものだ」
 三上は疲れた表情を隠そうともしなかった。
 今まで見せたことのないその表情は、きっと、隠し続けていたことをようやく吐き出せたことで脱力してしまったか、元々疲れていたのを隠す必要がなくなったからだろう。
 話の信憑性はもうこれ以上の質問が不要なくらい高いが、どうしても一点知りたいことがある。
「心中お察しします。あと少しだけ質問させてください。何故、彼の眼球が根本的な治療になるのでしょう?」
「眼球の構造をご存じですか? 眼球にはガラス体と呼ばれるコラーゲンで出来た組織があるのですが、彼のそのコラーゲンは独特で腸まで届き、問題の腸内細菌の餌となる。そこでマジカルな化学反応を起こすのです。あらゆる病を全て滅ぼして健康を取り戻すという、まさに奇跡的な化学反応を……。我々としてもそのコラーゲンを人為的に作れないものかと研究を繰り返した。が、駄目だった……。一種の奇形なのか、とにかくごく稀に誕生する眼球なのは確かです」
「なるほど……」
ところで
 気を取り直したように前のめりになった三上は、話題を転換する接続詞を強い口調で発した。
「山田さんはこれで根本的治療を理解した。もし助けが必要なら私に遠慮せずに言ってください。何とかなるかもしれませんから」
「ちょっと言っている意味が……。もう少し考えさせてください。いつもありがとうございます」
 何とかなるとは三上の神の力などで無理矢理に何とかするのか、それとも、健人と交渉することで何とかなるのか、その意図が不明だった。
「いえ、山田さんのお役に立ちたいのは彼らだけではない。私たちも同じ気持ちですから何も遠慮なさらずに」
「ありがとうございます。ちょっと帰って色々と考えたいと思います」
「分かりました。またいつでもお待ちしておりますので」

 山田は車でマグノリアへ帰宅した。
 その道中、山田はミステリー作家になって、ああすれば、こうすれば、片眼だけでも良いのならなどと幾つものトリックを試行錯誤してみた。
 マグノリアのドアを開いた瞬間、靴が沢山あることに気が付いた。
 居間に入り、ただいまと言うと、健人と杏を含めて八人の若者の視線が一斉に山田に集まった。
 こんばんは、と知らない人たちから挨拶が返ってくる。
 その中には垢抜けていないが十分に美少女と呼べる女性がいる。
 四十過ぎの自分は場違いだと思い、二階の寝室へ向かおうとしたら、健人が「ちょっと待ってくれ」と呼び止めてきた。
「この子、今日からマグノリアに住む遙ちゃん」
 健人はその美少女を指差して紹介した。
「初めまして。今日からお世話になる藤井遙と言います。よろしくお願いします!」
 どこか抜けていそうな雰囲気で、非常に美しい声をしている。高くも低くもないその声はとても落ち着いていて澄み切っている印象だ。これは喋る速度の問題ではなくて純粋に美しい声質なのである。
「遙ちゃん。僕は山田弘寿って言います。健人くんからはおっさんおっさん呼ばれてるけど。よろしくお願いします」
 用も済んで二階の寝室に入ると疲れが一気に出てベッドに倒れ込んだ。そのまま掛け布団の中に潜り込んで寝ようとするものの、頭が先ほどのことで一杯で眠れそうにない。
 ボンっと弾けるような音がした。
 健人がノックもせずに寝室に入ってきたのである。
「俺、今日からここで寝るから。遙ちゃんは杏と寝ることになった。なんでよろしく」
 その二つの眼球を正視する。
 大した空腹ではなくても確かに腹の虫が騒ぐ。
 片眼だけなら何とかして譲ってくれないものだろうか?

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