なみだばね町の下見に何度か行っている間に、叶向は三上の意志を目撃したのだろう。
趣味で自費出版しようとしていた本のタイトルを急遽『入口と出口の哲学』に変更して、最終章も「腸内環境について」に内容を差し替えたという話を、彼女の死後、出版社から直接聞いた。それはつまり、その頃にはすでに死を覚悟していたということになる。当時の三上もそこまでは気付いていなかったので、娘を利用して殺そうと考えていた。
ひとひら市に娘の遙を連れて買い物に来た叶向のあとをつける。
娘が一人になるその隙を狙うのである。
قوة اللهで意志を目撃されてしまえばお仕舞いではあるが、そう容易に使うことはないだろう。
大通のデパート内、叶向は一人でトイレに入り、おかっぱ頭の娘が一人その入口前で待っている。
意志の弱い幼子もまた容易に動かしやすい。
「遙、おいで、お父さんだよ」と呼ぶだけで遙は三上の元へ寄ってきた。そのまま連れ去り、自分の車で神林樹海まで向かった。
「おとうさん、どこにいくの?」
「ん? 遙が行ったことない広い森だ」
「わーい! はるか、しぜんがだいすき」
娘は完全にقوة اللهの支配下に入っている。
神林樹海前に車を停めた。
「迎えに来て」と言うように遙に教唆してから携帯を持たせて非通知で叶向に電話させた。
「おかあさん、はるかだよ。むかえにきて」
「遙!? 今どこにいるの!?」
「しんりんじゅかい、っていうところ」
「え!? 何でそんな遠くにいるの!?」
「ん? おとうさんがつれてきてくれた」
「お父さんは仕事でしょ、誰かに連れ去られたの!?」
「んー、はるか、わかんない」
「神林樹海で間違いないのね? 今から行くから待ってなさい!」
これで用なしとなった遙を適当な場所に放置しに行く。
近くの家電量販店で良いかと思い、そのトイレ前まで連れていき「お母さん、トイレだからここで待ってるんだよ」とそそのかして、また神林樹海に戻った。娘がقوة اللهの影響から抜け出せば、慌てて周りに助けを求め出すだろう。
叶向が来るまでの間、ロープを木に縛り付け、その下に踏み台を置いて首吊りの舞台を整えておいた。
多くの生命が生まれ、そして死んでいく神林樹海を三上はこよなく愛していた。ここでは生きるための静かな争奪戦が絶えず繰り広げられている。生死とは本来、意志のたゆまぬ揺らぎの衝突によって生じる静粛な現象である。
天に向かって伸びている背の高い木々の葉が日光を奪い合うようにして生えている。その木々の一部は朽ちて他の木にもたれ掛かっている。
日光があまり届かない地上では、蝶や蛾、芋虫などが野花を求めてさまよっている。その鈍重な虫けらたちも鳥類の格好の餌食となり死んでいく。
鳥類にも寿命が訪れて土の上で息絶える寸前となる。その息の根を止める小動物たちがいる。食い残された残骸は、分解者たちによって土へと還元されていく。
栄養豊富となった土壌が、再び、木の源となる。
全ては循環しているのだ。
それら生死の入り交じった樹海の香りを嗅げば、生きていることをより深く感じ取ることが出来る。いつか手に入れて、今後、創設を考えている海の教団の聖域としたい。
土を踏み分けて進んでくる足音が微かに聞き取れる。
その後「遙ー! 遙ー! 聞こえるー?」という叶向の叫び声が樹海を反響している。
三上はその声の方へゆっくりと歩み出した。ものの数秒で叶向の姿が目に入った。向こうも三上の存在にすぐに気付いたようだ。
「三上君、その最低な意志、目撃してたよ。遙はどこ?」
「適当な家電量販店に置いてきた。お母さんはトイレだから待っているように言っておいたよ。すぐに誰かに助けを求めるだろう」
「そう。遙が無事なら安心したわ。三上君、気が変わることを信じてたけど……。本当に可哀相。愛がたっぷりあるのに、そのはけ口が見つからないでいる。そういう意志が目撃出来る」
「愛? そのはけ口? きっと誰よりも求めていたよ。だが残念なことに、見つけることは出来なかった」
「私がいなくなっても何も変わらないのに……。いい? ひとひらは誰にも支配なんてされない。ひとひらは独立のための強い意志を持っている。何よりも気高くて孤高とした強烈な意志。こんな意志は他に見たことがない。私、目撃したわ」
「ほう、それなら余計に支配したくなったよ。叶向には首吊りということで亡くなってもらいたい。自分で行くか?」
三上はそう言って首吊り自殺の舞台を親指で指し示した。
「悪いけど嫌よ」
叶向は踵を返して一目散に遁走した。が、数歩目で躓いて転んだ。三上のقوة اللهによって動きを支配されているのである。三上は動けなくなった叶向を羽交い締めにして首吊り自殺の舞台まで運んだ。そのまま、輪状のロープの中に首を突っ込ませて、最後に言いたいことはあるかと問いかけた。
「三上君、愛のはけ口を見つけて。誰だって見つけることが出来る」
険しい表情の叶向は振り絞るようにして最後のセリフを発した。最期となっても毅然としている。
「そうか、私は叶向、お前を愛していたよ」
三上は叶向から腕を離した。ロープが首に巻き付いてギュウッと締め付ける。その肉体が微動だにしなくなったのを確認してもそのグラマーな後ろ姿を眺め続ける。
美しかった。
人の心を吸い込んでしまいそうな三日月状の瞳に大きな虹彩。
高くて真っ直ぐ通った鼻筋。よく通る声を出す厚くて血色の良い唇。
華奢だが、整った姿勢に女性らしい丸みを帯びた体。
そのどれもが彼女の芯の強さを象徴しているようであった。
数十分ほどその後ろ姿を見届けてから、三上はなみだばね町へ向かった。
あれだけ自分を警戒していた叶向のことだから何か自宅にダイイングメッセージのようなものを残していないか気になったのである。その家の中を物色している時、出版社との手紙が見つかった。本を自費出版したこと、家族にも内緒であることなどの情報が手に入った。
日記やダイイングメッセージの類は見つからなかった。
そもそも「愛のはけ口を見つけて」と言い残したのだ。刑務所に入れるつもりなどはなかったのだと推測出来る。
後日、叶向の死は無事、自殺として処理された。
全てが順調に進んでいる。
自分を食い止める存在は何もない。
叶向を葬った三上は、ひとひらを支配するための拠点として海の教団を立ち上げることに決めた。また同時に、腸内環境の研究所、兼、小川祐介と同様の眼球を持った人物を見つけるための秘密結社を立ち上げようと考えた。
信頼出来る仲間が必要だ。
祐介の死後、その妻が自殺したという情報を入手した。
彼が溺愛していたという一人娘のことが気になった。
仕事でお世話になったということで親族の元へ向かうと、一人娘の沙羅は数日前、寝袋とバッグを持ってどこかへ逃げ出したという。全く喋らなくなって返事もないから皆が困っており、児童養護施設に入れるしかないという話になっているそうだ。警察には連絡していないらしい。
愚か者どもめが、喋らなくなったというのはおそらく緘黙という情緒障害だろう、喋りたくても喋れないのだ。警察にも連絡していないとは、この親族、自殺の可能性を考えていないのかと三上は驚いた。
それは心配ですね、警察にも連絡した方がいいと三上は答えて、沙羅の行方を単独で探すことにした。
彼女の自宅のある五北《ごほく》駅からひとひら駅までの間を歩いて回った。
よっぽど仲の良い友人相手ならば声が出る可能性もあるが、相当なショックであることを鑑みると完全な緘黙で、友人に助けを求めているとは考えにくい。持っていった物が寝袋ということはどこか外で眠っているはずだ。
三上は公園を中心に回ることに決めた。
十カ所以上の公園を回っても沙羅は見つからず、土砂降りの雨も降ってきて日も暮れかけている。
もう次で最後にしようと決めたその公園のベンチで寝袋にくるまっている人がいる。
近づいてみると写真で見た通りの顔の人物で、この大雨を防ぐのに苦労している。
「沙羅ちゃん、聞こえてるかい?」
沙羅に優しく声をかけて、三上の自宅に来て住めば良いと誘い寄せた。頷くだけだった沙羅もその言葉を聞いて寝袋から出て背中に飛び乗ってきた。そのままおんぶした時、心に父性のようなものが芽生えるを三上は確かに感じ取った。叶向の言った愛のはけ口をついに見つけたのかもしれない。
沙羅は三上の自宅に住んでからも数ヶ月間、声を出すことが出来なかった。三上は無理に声を出させようとはせず、用事があれば何でも好きに紙に書いて教えてくれるよう伝えた。初めは遠慮がちだったが、次第に紙に書かれる要望が多くなっていった。だいぶ、三上宅での生活に慣れ始めたなという頃、沙羅の声が出るようになった。
「パパ……」
これが第一声だった。
他の言葉もすぐに出るようになった沙羅はみるみる自信を取り戻していき、高校に戻りたいと頼んできた。もちろん、それが最善の選択だということで応えようと思ったが、沙羅との関係を学校側から問われることになった。
そういう事情から沙羅を養子として迎え入れることになった。戸籍上の名字は三上になったが、沙羅の意志を尊重して、日常で利用する名字は小川のままにした。
沙羅は不思議だった。
قوة اللهが全く効かないのである。
父母の死を機に、おそらく意志が死んだのだ。
意志を持たない人間にقوة اللهは効かないのだと思った。
沙羅は三上の意志を引き継いだかのように振る舞った。沙羅が三上で、三上が沙羅のようでもあった。
その証左として、三上の残忍さを沙羅は何の抵抗もなく受け入れたのである。海の教団と秘密結社/Videoを設立して、当初は道徳的に運営していた。
祐介と同じ眼球の持ち主が、全国、そして世界数十カ国を巡っても全く見つからない。それならば、破壊されていく腸を人為的に治療する方法を模索する他なく、そのために踏み込んだ研究と実験が必要となった。
その過程で組織は残忍な性格を帯びざるを得なくなってきた。
それに対しても沙羅は何の驚きも躊躇もなく、そういうものだとして組織をそのまま受け入れた。三上のقوة اللهという能力のことも殺人すらも何ら普通のことのように受け止めた。
意志のない人間だからこそ愛せているのかもしれない。
ようやく見つけた神の眼球の持ち主を射程に入れている今、三上は愛を試しているのである。
あまりにも杜撰な方法で蓮を殺した。
山田との秘密もマグノリアの連中に全て伝わるかもしれない。
敢えて全てをバラそうと思っている訳ではないが、もし、このずぼらさのせいで沙羅が全てを知った時、それでも彼女は私を愛し続けてくれるだろうか?

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