4-11 Complex(杏)

 ボールペンを握った美白の手が文字を書いている。特別色黒ではないが白くもない杏がその手を羨望の面持ちで眺めている。ロングスカートからこぼれている右側に崩されたストッキング越しの両脚は非常に細くて、陸上で鍛えてきた杏の脚とはまるで違う。マグノリアに来る人らはコンプレックスなんてなさそうなくらい美しいと褒めてくれるが、自分なんて醜いところばかりだと杏はよく思っている。
 健人がナンパしたっていう沙羅さんがここまで美人だとは想像だにしなかった。男なら誰だって惹かれるだろうな。

 沙羅は緘黙の症状が続いているため、筆談で健人、遙、山田、杏の四人に知っていることを伝えている。
「ねえ、皆、何かご飯食べない?」
 杏が提案した。
「ああ、杏がいない間にピザ頼んでおいたから良いわ」
 健人は杏の方も向かずに答えた。
 沙羅が伝えてきたのは、三上の考えは分からないと前置きした上で、治療するためにずっと腸内環境の研究を続けてきたこと、また、いつからかコラーゲンの研究を始めたが、その理由が眼球のガラス体にあったことがようやく分かったこと、健人の眼球で治るというのなら間違いなく奪いに来るだろうということだった。
「蓮の死はどうなんだ? 海の教団の仕業なのか? 本当のことを言っても怒ったり拷問したりしないから教えて欲しい」
 健人が優しく問いただすとその顔からみるみる血の気が引いていった。ボールペンを握る手が震え、鼻をすすって泣き出した。
 その反応を見れば、答えは決まっているようなものだ。
「海の教団が殺したんだな?」
 健人が聞くと沙羅は目元を手で覆いながら軽く頷いた。杏の握りしめた拳がプルプルと震えている。
「おい、健人、こんな女、庇うのかよ? 蓮を殺した教団にいる女だぞ。しかも下っ端じゃない。私は許せねえ」
 立ち上がった杏は床に置いてある雑誌類を蹴り飛ばした。その目には殺意が込められている。泣いている沙羅の姿がますます怒りを助長させた。
「泣けば済む問題じゃねえんだよ!」
 杏は蹴り飛ばした雑誌を拾い上げて沙羅に投げつける素振りをしたが、そこで思い留まった。沙羅の両隣にいる山田と遙が両手で頭を守っている。
「杏、落ち着け。怒るのも尤もだが、今必要なのは情報だ。俺とおっさんと遙ちゃんの命が懸かってる。それに沙羅が殺した訳じゃない、そうだろ?」
 その確認に沙羅は目を覆ったまま頷いた。
 健人が続ける。
「ほら、沙羅は知ってるだけだ。仲間を庇うのは仕方がない。とにかく今は情報が必要だ」
「はあ? てめえの目を食わなきゃ、結局、山田さんと遙ちゃんは治らねえんだろ? てめえにその覚悟あるのかよ? このままじゃ三上に目くり抜かれて殺されるだけだろ」
「だから言ってるだろ! 三上に目くり抜かれて殺されたくねえんだよ! そのための情報だ。遙ちゃんとおっさんのことはまた別だ!」
「そうか。私にはチンプンカンプンな展開だよ。ちょっと頭冷やしてくる」
 杏は面白くなかった。
 遙ちゃんの命が危ないと教えたのも三上に指示されて蓮を殺しただろう斉藤誠の情報を教えたのだって私だ。
 しかも体を張ったんだ。
 それなのにこの沙羅って女と遙ちゃんのことばかり大事にして。私は完全なのけ者だ。
 風俗店は先日、正式に退職した。出会い系サイトも斉藤誠との一件を最後にログインしていない。
 凡人には凡人のやり方がある。
 二階の健人の寝室から斉藤誠の鞄と百万円の入った財布を持ち出して、杏はマグノリアを出た。

 杏はスマホで最寄りの交番を探した。
 国道に出て徒歩八分のところに一カ所ある。歩きながら杏は様々なことに思考を巡らせていた。
 蓮は完全な無駄死にじゃねえかよ。あの本は遙ちゃんがコピーを取っておいたんだから何の意味もなかった。
 海の教団、許さねえ。
 健人の目を食べたら治るなんて本当かよ。
 信じられねえし、意味が分からねえよ。
 二つの眼球を三人で奪い合うような展開にならねえだろうな。
 遙ちゃんに限ってそんなことはないだろうが、山田さんは分からねえ、生きるのに固執しすぎている感がある。
 そんなことより、健人、どうして私を大切にしてくれないの……?
 ずっと一緒に寝て色んなことを一緒にしてきたじゃないか。
 私よりもあの二人が大切だって言うの?
 そんなの嫌だよ。
 私を愛してくれよ。お願いだから私を愛してくれよ。私を丸ごと受け入れてくれよ。
 飛び込む覚悟は出来てるんだ。
 杏は交番に到着した。
 男性警官一人に、小さな机一台、電話、椅子、掲示物がある程度の小規模な交番であることを外から確認して杏は中に入った。
「どうしましたか?」
「あ、これ、数日前にホテルの前で拾ったんです。大金が入ってたからビックリして届け出るのが遅くなってしまって……。それと……、私の友だちが自殺したんですが、彼の名前に横線が引かれた紙が入ってたんです。私、これを見て、彼が殺されたんだと確信して……」
 話している途中で、杏は言葉に詰まって泣き出してその場にしゃがみ込んだ。机越しの警官が駆け寄ってきて、その肩に手を乗せて事情を尋ねてくる。
 緘黙状態の沙羅とは違った形で声が出てこない。
 これが過呼吸という症状なのだろうか、動悸が高ぶり、息が苦しくて死んでしまいそうだ。

目次へ