5-3 エビデンス(杏)

 警察に証拠を突きつけて再捜査してもらおうという杏の目論見は、淡々黙々と運用されている法律の前で脆くも崩れ去った。検視が行われた結果、自殺という死亡診断書が医師によって作成されているのだから、新たな証拠がなければ警察は動けないという。
 また、死者の名前が書かれた紙切れは何の証拠にもならない。冷静になって考えてみれば、誰にでも簡単に作成出来るのだからその通りである。
 せめて斉藤誠という人物の身元を調査して欲しいと訴えたが、そんなことは出来ない、それなら探偵に依頼するしかないと提案された。まさか探偵を手伝っている自分がそんなことを勧められるなんて。杏は自分の愚かさに苦笑いする他なかった。
 頭に血が上っていての行動ではあったが、斉藤誠が警察に被害を届け出ていなくて助かった。届け出ていた場合、盗品だとあっさりバレて逮捕されていただろう。

 ひとひらの街は数日前から賑わいを呈している。
 明日がひとひら漁業収穫祭の日なので、国内外から多くの観光客が押し寄せているのである。
 あらゆる所の電柱に「ひとひら漁業収穫祭」と印刷された青い旗が立て掛けられている。コンビニからアパレルショップまで、あらゆる店舗の壁に漁業祭のポスターが掲示されている。
 収穫祭は午前七時開始で、夜中の十二時まで続く。
 毎年楽しいけれども、朝早いことだけが杏にとって難点である。
 開始時間よりもだいぶ遅れて来る人は沢山いるが、イケメン芸能人たちの青いふんどし姿を拝める杏お目当ての開会式だけはなるべく見逃したくないのである。
 今年は蓮がいなくて、もう尽きた睡眠薬を入手できない。
 酒を早めに飲んで寝るしかないなと考えて、コンビニで缶ビールを買ってマグノリアに戻った。

 沙羅は海の教団に戻ったので、喧嘩になるような相手は不在である。
 いるのは、健人、山田、遙、詩織、いつもの四人だった。
 健人は一人ですでに酔っ払っている。
 具合が悪そうな山田はソファに寝そべっている。
 遙と詩織はクッションを抱えながら黙ってテレビを観ている。
 肝心の収穫祭へ行くメンバーが決まっていない。
 健人と杏と蓮の分の座席付きチケットは購入してあったから三人並んで座れるのだが、日に日に衰弱していく山田と遙がどうなるか当日まで分からない。
 詩織を誘ってしまい、山田と遙が来られるとなれば二人を優先的に席に座らせてしまえばいい。杏と健人で立ち見すれば問題ない話だ。
 そう勘案して健人に持ちかけてみた。
「ああ、すまん。そういえば大事なこと言い忘れてた。俺、明日行けねえんだわ。神林駅に用事あるから、ラピスラズリビーチ行く前に車で送ってってくれねえか? 七時前には着くようによ」
「は? 何でそういうこと早く言わねえんだよ。神林駅なんてどういう用事あるんだよ?」
「秘密だ。だから三人誘って、皆来られそうなら杏が一人で立ち見すりゃいい」
「一人の立ち見はつれえな。まあ、声かけてみるわ」
 杏は三人に声をかけた。
 山田はここ数日の状態を鑑みる限り、とても行けそうもないという。
 詩織と遙は二人とも用事があって行けないという。
 おい、私一人は流石に辛いぞ。恥ずかしすぎる。こんなことなら誰か他に誘っておけば良かったじゃねえか。健人が来られないなんて急に言うから。ふざけやがって。
「杏、ぼっち観戦良いじゃねえか、三人分の席を一人で使う図々しい女だと皆の記憶に残るぞ」
「からかってんじゃねえよ。お前のせいだ。もっと早く言えば誰か誘ってたのによ」
 今から誘っても来そうな人はいないし、大して仲の良くない人と一緒に過ごして気を遣うのも微妙なのでもう一人で構わない。コンビニまで缶ビールを買い足しに行ってさっさと寝てしまおうと考えた。
 寝室のベッドの枕元に缶ビールを置いて飲んでいる内に、杏はいつの間にか眠ってしまっていた。

「杏さん、起きないと時間危ないですよ!」
「師匠! 起きてください!」
 遙と詩織の声で目を覚ました。
 枕元のデジタル時計には四時三十分と書いてある。
 流石である。丁度良い時間に起こしてくれた。
 二人に感謝を伝えて健人の寝室に行くと、山田と一緒にまだ眠っている。準備は早い男だから放っておいて問題はないだろう。杏はシャワーを浴びておめかしをする。健人はいつも通りの格好で、その様子にも特別変わったところはない。
「杏、そろそろ行こうぜ」
「遙ちゃん、詩織ちゃん、じゃあ行ってくるね。山田さん起きたらよろしく言っておいて」
「分かりました。行ってらっしゃい」
「師匠! 楽しんできてください!」
 怒鳴り散らしてマグノリアを出て以来、敢えて海の教団関連の話題には触れていない。
 神林駅まで続く南ひとひら街道まで出るとこちら側の車線は閑散としているのに反対車線が大渋滞である。車が全く進む様子がない。
「え!? いくら何でもこの渋滞は酷くね? 開会式間に合わないかも」
「事故でもあったのかもな。神林駅が閉鎖されてるせいもあるのかも」
「神林駅が閉鎖? どういうことなんだ? 閉鎖されてる駅に行くってのは」
「そうだな、神林駅でタイマン張るんだよ」
「タイマン!? お前、何歳だよ、中高生かよ!?」
 健人は口には出さないが、おそらく三上と会うのだろう。そうだとするとこれが会える最後になるかもしれない。
「神林駅、着いたぞ」
「サンキュー。杏、俺、お前のこと信頼してるんだぜ。もし、何かあって俺が死んで、可能なら、俺の目は山田のおっさんと遙ちゃんに食べさせてやってくれ」
 健人の様子はいつも通りだ。どうしてそんなに冷静でいられるんだ。会えるの最後になるかもしれねえじゃん。
「健人……」
 健人の手に自分の両手を重ねた杏は、運転席から彼の胸に顔を押しつけた。そして泣かないという覚悟を決めて幾つかの質問をぶつけた。
「私のこと信頼してるって本当か? 何番目にだ?」
「二番目にだ。蓮が一番だからな。残念だったな」
「私のこと愛してるか?」
「照れ臭いこと聞いてきやがるなあ。愛してるぞ。家族のようにな」
 家族のようにというその言葉を受け入れなければならない。
 大丈夫だ。分かってたことを何で聞いて確認するんだよ。女々しい奴だな、私は……。らしくないったらありゃしねえ。
 健人の胸から顔を離した杏は、その美しい目を真剣に見つめて言った。
「元気でな。健人の無事、祈ってるぞ。殺そうとしても死なねえだろうから心配してねえけどな」
「ああ、杏もな、収穫祭、楽しんできてくれ。ありがとう。またな」
 車を降りた健人の大きな背中が遠のいていく。
 健人は誰よりも強いんだから放っておいても大丈夫だ。
 私は私を楽しむんだ。
 車をUターンさせた杏は、自分が強くなったのを感じていた。
 警察の時とは違って今度こそ証拠はある。
 泣かなかったことがその確固たる証拠だろう。

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