この先では、ついさっきまで哀れみの目で見届けてきた大渋滞が待ちかまえているはずである。杏がお気に入りの男性アイドルグループ「Ballantines」の楽曲を流して交通渋滞に備えておく。その最後尾に追いつくまでは、ものの数分だった。
想定外の事態に備えて多少早めに出てきたが、七時から行われる五分間の黙祷には間に合いそうにない。ひとひらの街が時を止めて、ただゴーラス海だけが別世界で波音を立てているようなあの独特の雰囲気も好きだったのに、この状態では流石に止むを得ない。
退屈凌ぎに収穫祭のパンフレットを開いて拾い読みをする。
開会式で歌うアーティスト一覧に、山田の好きな「Brother’s keeper」の名前があるではないか。這ってでも来て、冥土の土産としてその目に焼き付けておくべきだったなと健人なら言っただろう。あの嫌味を感じさせない乱暴な放言ももう聞けないのかもしれない。
スマホの通知音が鳴った。
確認したところ、詩織からのメッセージである。
やはり行けるようになったが、今からでも大丈夫かという確認の内容である。
独りぼっちを避けることが出来て胸を撫で下ろした杏は、大丈夫だ、座席はDブロックのFの30から32であることを伝えた。今から地下鉄で向かうという返信が来て、だだ下がりだったテンションが詩織のおかげで上がってきた。
渋滞もだいぶ緩和されて車が法定速度で進めるくらいになった。もしかしたら、黙祷に間に合うかもしれない。会場が近付くに連れて心がそわそわ浮き浮きしてくる。
ラピスラズリビーチの駐車場に到着した杏は警備員の誘導に従って車を停めた。
国内で圧倒的一位の面積を誇る駐車場にはまだ沢山のスペースが残っている。例年、六十万もの人が訪れるイベントにもかかわらず、絶対に満車にならないくらい広いのだ。だからこそ公共交通機関の利用を特別推奨していない。
杏は秋の朝らしい日差しが輝くビーチへ降り立った。
予想外にも黙祷に間に合った。
ゴーラス海前に複数設置されている大型ビジョンには、収穫祭のタイムテーブルが映し出されている。
重いであろうサーバを背負っている青い水着姿のビールの売り子と何度もすれ違う。あんなものを背負って砂浜を歩いていては寒さなど感じないのだろう。海の家は来場者があまり歩かなくて済むよう、あちらこちらに建てられている。
それらや雑踏を縫って、杏は座席まで辿り着いた。
一種独特の熱気に包まれているラピスラズリビーチはその気温と浜風を考えれば本来肌寒いくらいのはずである。実際、それ相応の服装をしてきたというのに汗が浮いてくるので、杏は上着を脱いで膝の上に置いた。
「師匠!」
声の先には詩織がいて、座席と座席の間を縫って進んでくる。
「ちょっと詩織ちゃん、人前で師匠は勘弁して」
「ごめんなさい。いつもの癖なもんで」
「間に合って良かった。あと数分で黙祷始まるところだったから」
大型ビジョンの右上には六時五九分と表示されている。
ビジョンに映っている毎年恒例の司会者の声がスピーカーから響き始めた。
「ご来場の皆様、ひとひら漁業収穫祭へようこそ! この収穫祭では毎年、皆様が魔法使いとなられます! それでは、ひとひらの時を止めましょう。立っている方も、座っている方もゴーラス海の方をお向きください。五分間と長いのでご起立の方は結構です」
爆発的な大歓声が響き渡る。
ラピスラズリビーチが揺れている。
「では、偉大なるゴーラス海に感謝と敬いの意を込めて五分間の黙祷を捧げます。黙祷!」
合図に従い、杏と詩織が黙祷を捧げる。
先ほどとは別世界に移動したかのように会場が鎮まり返っている。
この黙祷、健人の死に捧げていることになってないだろうな、あいつ、三上と交渉するつもりなんだろうか、それとも戦うつもりなんだろうか?
必ず生きて残って来いよな。健人が私を信頼してくれているように、私もお前を信頼してるぞ。
一番にな。
杏は黙祷を止めて周りを見回した。
大半の人が黙祷を続けているが、やはりサボっている人がちらほら目に付く。杏はスマホで健人とのメッセージ履歴を初めから読み返し始めた。
風俗店の客として接していた時のもの、杏がデートを提案した時のもの、探偵を手伝ってくれと頼まれた時のもの、山田をマグノリアに連れてくる時のもの、蓮の死に関連するもの、その大半が素っ気ないやり取りだが、杏にとってはこれ以上ない大切な思い出なのだ。
「お直りください」
終了の挨拶と共に、時を止めていたひとひらの街が再び動き出すのだが、今年は例年と様相が違う。驚きとも感動とも付かぬ声々が口々に上がって、そのざわめきは収まる様子を見せなかった。
その理由が杏には一瞬分からなかった。
「杏さん、あれ、凄いですよ」
詩織が指を差したゴーラス海上の空に目を向けた。
ざわめきの理由がすぐに分かった。
そこには巨大で鮮明な虹の架け橋が浮かんでいるのだ。
これほど見映えがする虹は生まれてこの方見たことがない。七色それぞれが己の存在を主張しているかのような明確な色の境界線が眉目良《みめよ》い。まさに絶景だ。
それと同時に、杏はひとひらの古い言い伝えを思い出して口にした。
「海に立派な虹架かる時、憧れの矢は放たれて全てが終わるだろう……」
「杏さん、それ、言い伝えですか?」
「そう。『憧れの矢』って何なんだろうって気になってた言い伝え」
「恋のキューピッドの矢みたいに射られた人が誰かを好きになっちゃうみたいな?」
「そう思ったけど、何で『全てが終わるだろう』って不吉な終わり方なのか気になって」
「恋が成就して全て終わるんじゃないですか? ひとひらの言い伝え、不吉な言葉回し多いから考えたこともなかったですよ」
「まあ、そうだよね、不吉なのばっかだし、考えても仕方ないっか」
話が途切れて二人が無言になった時、背後から「お姉さん」という躍動感のある声が聞こえた。自分が呼ばれたのか分からなくて無視していると、もう一度「ねえ、お姉さん!」と呼ばれた。
これは自分のことに間違いない。
杏は振り返った。

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