6-7 ホメオスタシス(遥)

 ただ一人だけのために、旅立つまでの限りある時の数多を注ぎ込むという献身的な人生も悪くはない。健人の片目となって生きていく覚悟を決めた遙は、自分こそが適任者なのかもしれないと感じていた。
 遙は一度決断したら驚くほど頑固に決めたことを守り続ける。周りからは半ば呆れたように、人は見かけによらないと評されるほどである。

 健人の両眼摘出が決まった時、まだ時間の猶予のある遙は、まずは一刻を争う山田のために片眼だけ摘出してはどうかと提案した。が、二度も手術を受けるのは面倒臭い。ただでさえ、両足の手術でくたびれてるのだと言って聞き入れなかった。確かに片目の視力だけ失ったところで、両目失明の状態を理解することは出来ないだろう。とはいえ、片目だけで見られる人物や風景は山ほどあるのだ。
 健人にはどうしても見ておきたい人物や風景はなかったのだろうか?
 最後にどうしても見ておきたいものがないのは、何にも増して悲しいことだなと遙は思い起こしていた。

 健人をサポートするため、遙と山田のどちらかがマグノリアに残り、そうでない方が働きに出るというのが約束事になっていた。彼氏とのデートですでに忙しい杏は事務職として働き始めたので、残された貴重な時間を拘束するのは躊躇われた。山田は家で出来る小説の仕事が中心のため、主に遙が働きに出ていた。
 ファミレスの厨房の仕事である。
 今後、健人に美味しい料理を振る舞ってあげられるようにと考えて応募した。

 この日は休みで、山田が書店のバイトに出ているから健人と二人きり。
 以前のマッサージ店でのバイト経験を活かして健人の体をマッサージしてあげるのだ。
 先日、山田と競馬場に行ったから体のあちこちが痛いのだという。今の体に慣れて山田の介助付きだとはいっても、盲目状態ではまだ体に無駄な力が入ってしまうそうだ。
「さあ、ベッドにうつ伏せにおなりください」
「うつ伏せか、三上と戦った時のことを思い出すな」
「えへへ、あの時、何回もうつ伏せに倒れてて思い出したら笑える」 
「笑うなよ、マジで死ぬほど痛かったからな、初めから遙を呼んでおくべきだったぜ。あれは沙羅のせいだな」
 いつからか、健人とはお互いタメ口、呼び捨てで喋る懇意な間柄まで深まっている。初めは怖くて絶対に仲良くはなれないと思っていたのに。健人の腰にまたがり、まずは背中からマッサージを始めた。触れた瞬間にその筋肉が頑固に凝っていると分かる。
「一人で行くって言った健人のせいじゃないの?」
「だな、何を格好付けてたんだか。だからってよ、沙羅も止めれば良いじゃんかよ、それに遙も聞いてたんならすぐに来いよな、刺されてから来るなんておせーし。あっ! これは背中が最高だ」
「健人もマッサージの仕事すれば良いんじゃない? 視覚障害者の代表的な仕事だし」
「嫌だよ。何年も学校通わなきゃいけねえんだぜ? 勉強は高校までで懲り懲りだよ」
「健人って頭良いんでしょ? 進学校通ってたって聞いたけど」
「ああ、全然だよ。蓮は学年でも上位だったけどな、俺は学年で最下位争い。今更興味ないこと出来ねえよ。もう大人になると子どもの時みたいに盲目的に勉強するなんて無理だな」
「最下位でも進学校入るだけで私からすれば凄いけどな。お客さん、どんな仕事したいんですか? 他に凝って気になるところありますか?」
「首を頼む。まあなあ、探偵は流石に無理だからな。増築するマグノリアのオーナー以外ねえな。あ、そういえば、杏が出ていくから猫飼おうぜ! 盲導犬も待ち期間あと数ヶ月だからよ、猫と戦わせようぜ」
「え!? 杏さん、出てくの!? 彼氏と同棲でもするの!?」
「痛い! おい、気を逸らさないでくれ」
「ごめんごめん」
「話何だったっけ。あ、そうそう、同棲するんだとよ。彼氏にこないだ電話で『てめえ、杏連れてく前に土産持って頭下げに来いや』って脅したら『ごめんなさい! 行くつもりだったんです! 本当です!』って謝りまくってきた。クソ面白かったぞ」
「やめてよ、来なくなったらどうするの? 何だか寂しいなあ。でも猫ちゃんも良いなあ。名前は何にしようかなあ」
「悪いな、名前はもう決めてあるんだ」
「何?」
「キナコだ」
 はて? どうしてキナコなんだろう?
 あんず餅の代わりに、きなこ餅っていう意味なのかな?

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