私は決して許されないことを繰り返してきた。
沙羅は、一番好きな映画の終盤に出てくるセリフを頭の中で何かの呪文のように復唱していた。それは登場人物の警察官が自問自答する形で語るものである。
「助けを必要としている者、許しを必要としている者、刑務所入りが必要な者。そこの判断が微妙で難しい。もちろん法は法だ。法は破れない。だが許しは可能だ。難しい判断だ。何を許すべきか、判断が難しい。人間として悩む問題だ」
それならば、私はどのような人間だろうかという問いが沙羅を悩ますのである。
この日の夜はマグノリアで健人と二人で会う約束をしている。他の人がいたら駄目なのかと聞かれたが、誰かがいると都合が悪いのだと答えた。沙羅もすっかりマグノリアの一員として認められている。入るのにチャイムは鳴らさなくても良いのがその証である。
居間では全てが普段通りだった。
サングラスをかけたマフィアのボスのような健人が、腰掛けているソファの背に両腕を預けて足を組んでいる。その傍らにはキナコと、盲導犬としてやってきたアベルとが白杖を守るようにして座っている。来たことを告げて、沙羅は健人の向かいのソファに座った。
「そういえば、ナミダミチモクレンの出るGⅠ、週末ね」
「ああ、次はチャンスあるんじゃねえか、GⅠの中でも特殊なレースでな、初めてGⅠ制覇する馬が多いレースなんだ」
「勝ったら種馬になれるの?」
「勝てても勝てなくても、蓮の親父が種馬にするとは言ってたな。でも種馬としては厳しいんでないか」
「どうして分かるの?」
「血統。モクレンは晩成で、おそらくクライからその傾向を受け継いでいる。あの馬の産駒も晩成ですぐに見切り付けられたんだ。今の時代な、早熟性が求められてるんだよ」
「へー。人間社会と同じね。すぐに結果を求められるなんて」
「ま、そうだな、でも人間社会の方がマシなんじゃないか? 馬なんて結果残せなきゃ……、知ってるだろ?」
「知ってる。懐かしいわ、健人と初めて会った日が。ねえ、遙ちゃんと結婚はしないの?」
「結婚したってなあ。俺ら、子ども作るの怖いんだよ。分かるだろ? また変な遺伝が起きたらどうすりゃ良いかってな。養子って選択肢もあるんだが『心身ともに健康な』って条件に俺が引っかかるかもしれないんだとよ。アホかと。そこらの視力ある奴らよりも物事見えてるってえのに。それより沙羅」
突然、話を振られて驚いた。健人のその口振りは何か重要なことを問い質す時のものだ。
「神の力に目覚めているだろ?」
健人は足を組むのを止めて前のめりの姿勢で両手を組んでいる。
「何で? 何故分かったの?」
「香りだ。神の力の使い手は独特な香りがするから分かる」
「それは嫌なバレ方ね。女性に言うならオブラートに包まなきゃ」
「どうして目覚めた? どんな能力なんだ?」
健人に問い詰められている沙羅の口はカラカラに渇いている。
「お義父さまの実験に付き合ってたのよ? いくらでもقوة اللهの源、原初の生命は入手出来る。移植したから目覚めただけ。そして能力は……」
沙羅は少しく間を置き、渇いた口を潤すための唾液を不十分ながらも分泌させた。深く息を吸い込んでから一語一語を区切って吐息と共に発した。
「キ・ズ・ナ。そう、絆……。人の意志と人の意志を親しく結びつけるقوة الله。らしくなくない? 何でこんな能力が顕現したのか意味分かんない」
「いや、沙羅にピッタリな能力だろ。沙羅は敵と味方を結びつけてきた。沙羅がいなければ、俺たちは全滅だったな」
健人の貯えられた口周りの髭の間からは並びの良い白い歯が見える。彼の健康を気遣う遙に勧められるがまま禁煙外来へ行き、そこで処方された治療薬でそう苦もなく禁煙に成功したそうだ。意外にもかかあ天下のようだが、皆、気付いていても健人に直接言えていない。
「ピッタリ……、か。それも複雑だな。少なくともあなたたちには不要な能力ね。マグノリアの人たちは強い絆で結ばれているもの。あと、白状しなきゃならないことが一つある」
「何だ?」
「蓮君を殺した主犯は私よ。直接手を下したのは部下でも、夜のゴーラス海まで一緒に行ったのは私。殺す気で一緒に向かったの」
「そうか……。まあ、想像の範疇だ。別に今更驚きはしねえよ」
「怒らないの? どうして?」
沙羅は泣き出して、健人の隣に移動してその逞しい腕を何度も強く殴り付けた。その腕はビクともしない。
「叱られたい願望でもあったのか?」
「まだお願いがあるの。パパの目に似てるって言ってきたけど、一度、パパって呼ばせて欲しいの」
「気持ち悪いな。遙に何かそそのかされたのか? まあ、別に良いけどよ」
「パパ。パパ。パパ……」
沙羅は何度も繰り返しながら健人の胸元に頭を押しつけて抱き付いた。この時間が永遠に続けばいい。この時間が止められないようにパパと呼び続けた。
「おいおい、抱き付くとまでは聞いてねえぞ。遙にバレたらどうする」
「……ごめん。帰るね」
沙羅は踵を返してそのままマグノリアを出ようとしたが、健人から声をかけられて足を止めた。
「おい、どこに帰るんだ? 歩き方がいつもと違うぞ。凄く悲しみに満ちた歩き方だ」
「いつか皆が帰るところ、ね」
沙羅は健人の方を振り向かないまま言葉を発したが、彼は全てを察したようだった。
「最後に一つ言わせてくれ。沙羅。沙羅は良い人だ。間違いない」
沙羅は気丈に振る舞い、涙声にならないよう今まで通りの滑らかな発音で健人に言葉を贈った。
「当たり前じゃない。私ほど良い人がいる? 美人薄命って言うでしょ? 数奇な運命に翻弄される定めなのよ。美人の宿命。何も気にすることはないわ」
「分かった。デートの約束は忘れてねえからな。動物園もあの屠畜場もデートなんて見なしてねえからな。いつか俺も帰るところに帰ったらデートしてもらう。それまでの間、蓮を頼んだぞ」
「うん……」
これ以上言葉を振り絞ろうとすれば、号泣してしまう。そのまま、真っ直ぐ歩いてマグノリアを出た。増築の際に作られた駐車場に停めておいた車に乗り込み、沙羅はゴーラス海に向かった。許されないことを繰り返してきたことの精算を済ませるのだ。
海水浴シーズン真っ直中のラピスラズリビーチは夜中でも沢山の人で溢れ返っている。そんな中、一人の女が何をしようと誰も関心を示さないだろう。
銀箔をまぶされたようなゴーラス海のさざ波はいつもよりも高い。
沙羅は裸足になって夜の冷えた砂浜のきめ細かい感触をよく感じた。
目を瞑り、寄せては返す波の音に耳を澄ませた。それはどこまでも優しい天使の声のように聞こえる。
その声が誘っているのだ。
迷いを吹っ切った沙羅は、毅然とした態度でゴーラス海に向かって歩みを進めた。腰の辺りまで浸水したところで重みを感じたが、すぐにこの罪に染められた体をさらい、呑み込んでくれるだろう。
お義父さま、パパ、ママ、待ってて。
私、ようやく皆のところへ帰れるわ。
完


最近のコメント