ポール・トーマス・アンダーソン監督の群像劇。
この映画には「許されたい!」という叫びが充満している。これがテーマである。「許し」ではなく、「許されたいという叫び」がテーマなのだ。
だが残念ながら、その叫びは絶望的なまでに誰にも届かず、罪悪感を背負っていくしかない。
だから映画の中でエイミーはこう歌う、「それはもう止まらない」(「それ」は罪悪感によって許されたいと叫び続けること、とも解釈できるだろう)と。そしてエイミーは皮肉を言う、「賢くなるまでは」。だが賢くなるのはほとんど不可能な試みである。ではどうするべきか、エイミーは歌の最後でこう歌う、「あとは諦めるだけ」なのだと。
この悲劇を特殊な例だと思ってはいけない。誰だって長年生きていれば、後悔し、「許して貰いたい」という感情に気づくはずだ。だけど、何事も容易に許しが訪れるはずはない。映画内でも出てくるけれど、裏切った人に対して許しを請いたくとも、その人が亡くなっていたり連絡が取れなければ「許し」は永遠に不可能であるし、たとえ関係が続いていたとしても 「全てを許して欲しい」と直接に言うことははばかれるし、それでも許して貰えないことだって多々あるだろう。
この映画は興行的には失敗とされているらしい。アメリカ人がどういう評価を下しているのか気になる。というのも、俗に言われているように、欧米は「罪の文化」、日本は「恥の文化」とされているから。
日本では高い評価をしている人がいる一方で、かなりの酷評をする人も多い映画なので、多くの日本人には本作の「罪」の部分に馴染みがなかったのかもしれない。
この映画の主人公格であるクローディアは、「許して欲しい」という絶望的な感情から逃れるための手段を彼女なりに考え付いたのだろうと確信している。彼女は言う、「嘘をつかず、隠したてもしない。そうすれば良い関係を続けることが出来る」と。父親から受けた性的虐待(ただ、これが事実かは映画内で明らかにならない)によって罪悪感を抱いている彼女と、過去のことを誤魔化す父親との関係が言わせたセリフなのかもしれない。
「過去は捨てたとおもっても、過去は追ってくる」、これは再三映画内で出てくる台詞だけれど、過去は執拗なまでに人間たちを追いかけ、罪悪感という亡霊となって追い詰める。人類が普遍的に忌み続けてきた亡霊は何よりも恐ろしい。自分は思う、何かを喪失するよりも恐ろしいことはその正反対のこと、捨てた(喪失した)はずの過去が再び現前することなのだと。
罪びとである登場人物たちには大災厄が訪れる。自分の調べた限り、あのシーンは大災厄の象徴らしい。しかしそんなことは知らなくても面白い。もうひとつのテーマ、「世の中は不思議だ」という点においてはリンクしているから。
自分なりの結論はこうだ、許されることを諦め、人間たちはただ溢れんばかりの愛を糧に、亡霊たちと戦うしかないのだ。逃げ場など絶対にないのだ。
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