ひとひらの街はゴーラス海に面している。
人々は豊富な海の幸に恵まれたこの海の幸運を愛し、敬い、そして感謝している。また、ある人はその神々しさを崇拝し、ある人は擬人化して友のように喋りかける。
その崇拝している団体の一つに「海の教団」という新興宗教があり、小川沙羅はその会長補佐を務めている。
ゴーラス海の手前に茫洋と広がる国内最大の渚・ラピスラズリビーチ。
その波打ち際にバスタオルを敷いて座っている沙羅は、そのまま小一時間、海が波打つのを朧気に眺め続けていた。ねんごろな波が彼女の純白の裸足を濡らして泡立てては颯《さっ》と引いていく。
中毒性のある、その反復。
日焼け止めを塗り直し終えてスマホを確認したところ、数件の着信履歴が残っている。その全てが、教団の受付や事務を務めている大引亜弥からのものだった。
沙羅は立ち上がり、青い花柄のワンピースの臀部を払ってから電話をかけ直した。
「亜弥、どうしたの?」
「あ、沙羅さん。三上先生が『沙羅はどうして帰ってこない』と心配していて」
「やっぱり。お義父さまは心配性なんだから」
「しかも『子、虐げる時、ひとひらの街に災い訪れるだろう』って、言い伝えまで引用してましたよ」
「別に虐げられた記憶はないけど……。で、帰って来いって?」
「いえ、居場所だけ分かれば良いそうです。どこですか?」
「ラピスラズリビーチだけど」
「あ、良いですね。三上先生に伝えたら向かっても良いですか? 今年、海、ほとんど行けてないんですよ」
「さざなみ霊園に行くから泳げないけど、それでも良いなら良いよ」
「もちろんです。急いで行きますね」
電話を切って、沙羅はまたバスタオルに腰を下ろした。
ローズゴールドの腕時計の文字盤は十二時過ぎを示している。
もう秋と呼ぶのが妥当な日曜日のラピスラズリビーチは一時間前よりも相当騒がしい。
きっと今年最後になるだろう週末の快晴の夏日を満喫しようと、家族連れやカップル、男女のグループらがこぞって駆けつけたのだろう。ビーチが広いからまばらではあるが、それでも優に五千人はいる。海の家もいつの間にか沢山開店している。
最高でも十五℃に満たないと告げていた天気予報は大外れである。
おそらく今日をもって一旦、ビーチの賑わいは過ぎ去るだろう。
その後、十月に行われるひとひら漁業収穫祭が始まると、メイン会場のここに約六十万もの人が一堂に会する。昔はテレビでも全国放送された大イベントである。
餅まきならぬ、海産物まき、では毎年、多くの負傷者が出る。死者が出た年もある。それでも規制や中止はない。
開始時、参加者全員が一斉にゴーラス海に向かって五分間もの黙祷を捧げる。
その時、ひとひらの街は時を止める。
他ではお目にかかることの出来ないその光景こそが、収穫祭の意義を十分に物語っている。
「沙羅さーん!」
嬉しさを隠せないでいる陽気な声と共に、沙羅の右肩が二度軽く叩かれた。振り返ると、派手な紫色のビキニを着た亜弥が満面の笑みを浮かべている。
「え? 亜弥、一人で泳ぐつもりだったの?」
「はい。沙羅さんが泳げないって言うので……。駄目でした?」
「まあ、全然良いけど……。取りあえず隣座ってよ」
バスタオルに二人並んで座って、脚を伸ばした。
受付嬢を務めているだけあって、先日三十歳を迎えた亜弥は清楚な美貌をしている。艶を出すためにわざわざ黒染めしている髪の毛は肩まで伸びていて、メイクもいつも控えめを心がけている。
沙羅より年上だが、教団では教祖の義娘である彼女の方が圧倒的に立場が上なので、敬語・丁寧語で喋りかけてくる。
「お義父さま、私のこと何歳だと思ってる訳? 二十八歳よ? 一晩連絡しないで家出たくらいでさ」
「それだけ可愛いんですよ。理解者がいて良いな。私なんて昨日も彼氏に教団の教え言ったら怒られましたよ」
「うわっ、彼氏さん可哀想。未信者の人に教え説いても胡散臭いとしか思われないわよ。離れてくだけだから止めなさいよ」
「え!? 彼氏の肩を持つんですか!? 教団会長補佐ともあろうお方が!?」
沙羅が答えようとすると、躍動感のある声が後ろから聞こえた。
「お姉さん」
ナンパだな。
無視して亜弥の太股を叩く。「振り返るな」という合図である。そのまま会話を続けようとしたら、もう一度、声をかけられた。
「ねえ、お姉さん!」
今度は二人揃って振り返ると、日焼けした海パン姿の男二人が、プラスチックのコップに入ったビールを両手に持っている。
声をかけてきた方は筋肉質な体型の自信がありそうな美青年である。そのやや斜め後ろにいる優しそうな男性は、ナンパに誘われただけだという雰囲気を醸し出している。
「ねえねえ、ビール買って来たから一緒に飲まない?」
「私たち、車だから……」
こういう場合、沙羅に全てを任せるよう以前から取り決めている。
「ああ、それは残念! こんな綺麗な人が一人で何してんのかなって思って気になってたんだよ。ビキニの美女まで来たからこりゃ声かけなきゃなって思ってさ。二人、どういう組み合わせ? 何してんの?」
「……私はパパを捜してるの」
ゴーラス海の方へ向き直って、沙羅は海に喋りかけるように言った。
「パパ? パパ、ああ、なるほどね。俺たちがパパになるからさ、四人で遊ぼうよ」
沙羅が振り向くと、男二人はスケベ丸出しの顔をして見つめ合っている。
「死ぬ? 殺されたい? 骨の髄まで燃やして遺灰を海に撒いてあげよっか? 証拠がなくなるから快感なんだよ?」
冷酷に言い放ったら、白い歯を見せていた二人が口を閉じて表情を硬直させた。
「え? 俺たち何か変なこと言ったかな? あ、いや、ごめんなさい。ちょっと勘違いしてたみたいで……。な、勘違いしてたよな?」
筋肉質の男が言い、優しそうな男の方が何度も小刻みに肯いている。
「失礼しました!」
二人は急ぎ足で逃げ失せていった。
亜弥が顔を引きつらせて怯えている様子なので、その全身をくすぐった。すると彼女は笑い声を上げながら、軟体動物のような指の動きの中から逃げ出していった。引き笑いの止まらない亜弥が戻ってきて言う。
「沙羅さんが実のお父さんを今でも偲んでいるのはよく知ってますけど、それでも『パパを捜してるの』は誤解を招きますよ。お金の支援してくれる人探してる、にしか聞こえないですもん」
「あれ? そんな意味で言ったんじゃないんだけどな。支援してくれる人現れるならこれからどんどん使っていこうかな」
沙羅がしらばっくれることで場の空気が元通りに和む。亜弥は「イケメンだったのに勿体ない」と、彼氏がいるにもかかわらず不満を隠そうとしない。
その後、亜弥が泳いでいる間に、沙羅はさざなみ霊園まで行って墓参りを済ませた。
両手を合わせて祈ることはいつも同じ。
ねえ、パパ、ママ、帰って来てよ……。

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