「社長、神林《しんりん》駅の件は検討していただけたでしょうか?」
海の教団の教祖・三上雄平は、古谷《ふるや》鉄道の社長・古谷修《おさむ》と二度目の交渉に臨んでいた。ひとひら駅併設のタワービル内にある古谷鉄道本社の社長室内で、スーツ姿の二人は向かい合う形で本皮のソファに深く腰かけていた。
一度目の交渉で、三上は地下鉄神林駅構内を二十四時間自由に出入り出来る権利を海の教団側に与えるよう要求していた。
その代わりに、三億円を古谷鉄道に寄付するという条件も前回すでに提示してあるため、あとはその回答を得るだけである。
「すでに三上さんは我が社と雇用契約を結んでいるので、ルール上は問題ないのですが、やはり、かなりの特別扱いとなりますから、他の社員が不平不満を漏らさない程度にしていただければ。いや、社長権限と言えば、誰も逆らったりはしないでしょうが、念のため、ですね。寄付の件、よろしくお願い致します」
この民営鉄道会社が資金繰りに苦慮していることは、以前、正社員として働いていたからよく知っていた。
「しかし……、本当に三億もの寄付を現金で?」
「もちろんです。何故、あんなところの権利に三億も出すのか、不思議なんでしょう?」
「そこです。私が不思議に思っているのは。何しろ、周りに何もないじゃないですか」
「それが良いんですよ。仰る通り、神林樹海くらいしかない。実は、神林樹海の土地を全て買い取る計画を立てているんです。あの土地は何にも増して神聖だとは思いませんか?」
「あの広大な樹海を……」
古谷は壮大な計画に圧倒されたのか、口をぽかんと開けたまま、あとに続く言葉が出てこないという様子だった。誤解を招いていると思い、三上は言葉を補った。
「無論、今すぐに、という話ではないですよ。将来的にはそうしたいと考えているだけです。我々にはまだそれだけの資金がない」
「しかし、あの土地は国立公園だから購入出来ないのでは?」
やや前のめりになった三上は腕を組み直し、鋭い視線を古谷に浴びせた。浴びせられた古谷は視線を泳がせた。
「そこは何とかするしかないでしょう。私を誰だと思っているのですか?」
強い語気で問い質された古谷は、すっかり広くなったおでこに冷や汗を滲ませている。その汗は忽ちに水滴となり、眉間やこめかみを伝って垂れていく。唾を飲み込む音が室内に響いたが、おそらくはそれを誤魔化すために咳払いを繰り返している。
「三上様……、です」
急に弱々しくなってこうべを垂れている古谷の姿も発言も、まさに三上の奴隷そのものである。
「何を怯えているのですか? 交渉成立ということで、ここは握手で締めくくりましょう」
立ち上がった三上が手を差し出すと、古谷は急いで掌の汗をスーツで拭い、起立して握手に応じた。
「今から地下鉄を運転しようと思う。手配を頼む」
「はい! かしこまりました。今、運転席を確保しますので、少々お待ちください」
古谷は然るべきところに電話をかけて、今から三上がひとひら駅に向かうということを伝えている。その姿を確認した三上は無言で社長室を出た。本社のロッカールームで制服・制帽姿に着替えて、最後に白い手袋を付ける。その後、ひとひら駅の改札を顔パスで通り抜け、先頭車両が到着する地点で待機する。
傍目には決して見せないが、この日も頭痛とめまいに見舞われて倒れそうな三上は、いつものように背中をポールに預けて目を瞑り、外界の情報を遮断した。
「まもなく、倖《しあわせ》方面行きの列車が到着します。ご注意ください」
いつも通り、場内アナウンスを聞いてから三上は目を開いた。
先頭車両の運転士が三上を見つけたのだろう、車両を停止させるとすぐに下車して近付いてきた。「お疲れ様」と挨拶を交わして三上は運転室に入った。
操縦は簡単だ。
青のブザーボタンを押してから、白のドア締めボタンを押す。
それから、誤操作防止のため、二つで一組になっている緑色のATO発車ボタンというものを同時に押して発車する。
次の駅に到着したら赤のドア開けボタンを押し、時間を見計らってまた青のブザーボタンを押すだけである。
たまに到着時間の微調整を行う程度で、単調な作業の繰り返しだ。
名目上は仕事であり、給与も発生しているが、その実状は、三上の偉力をより世に知らしめるためのお遊びだった。
三上が運転すると、人身事故が起きないというジンクスがまず社内で広まり、ひとひら市民の一部もそれを耳にするようになっていた。
しかし、その効果は期待していたほどではなく、あくまでジンクス扱いに留まったため、三上は何度もこのお遊びを終わりにしようと思った。
それでも続けているのは、地下鉄のあり方は自分という存在の生き方と酷似しているのだと感じているからだった。
緑の二つのボタンを同時に押して発車させた三上は、昔のことを思い出していた。
高校卒業後、本当は大学に進学して腸内細菌について究めたかったが、幼い頃に細菌を汚いものだと散々馬鹿にされた経験から、両親や同級生の目を気にして大企業に就職することにした。それが、旧財閥・古谷商事グループの古谷鉄道だった。普通科高校の出身者が就職するのはほぼ例がなく、同様の経歴で入社してきたのは同期で自分を除けば一人だけである。
地下鉄の運転士として真面目に勤務して、二年経った頃、愛する母が乳がんで死亡した。そのあとを追うようにして、尊敬する父が肺炎をこじらせて亡くなった。
同級生たちとももう関わりがなくなっており、古谷商事グループは経営難に陥っていた。
退職に迷いはなかった。
陰で研究を続けていた腸内細菌の知識を活かして、健康食品会社クローリスコーポレーションを立ち上げ、主力商品の乳酸菌飲料クロリスで大儲けした。クロリスはひとひらの特色を出そうと鰹節を隠し味に仕込んだ商品で、街の定番商品となっている。
その独特の風味は他の数多ある乳酸菌飲料とは一線を画していたから、他地域の人間がひとひらに来たらコンビニなどで買って飲んでみるくらいには有名だ。
その後、社長の位を退き、会社の株の大半を売って腸内細菌の研究を黙々と続けた。得たものは沢山あったが、肝心要のものを見つけることは出来なかった。
この間に、三上は海の教団を設立している。
ひとひら駅から南に一駅の大通駅に着いて、次はあるまま駅に行く。あるままはひとひらの歓楽街で、酔っぱらいや水商売・風俗業で病んだ人たちが多く利用する駅だから、人身事故率は他よりも高かった。
すっかり見慣れた地下鉄の暗いトンネルも、働き始めた時は新鮮で、駅に近付くに連れて迫ってくる明かりを見ては、誰かが線路に飛び込んでこないか期待を膨らませて貧乏揺すりをしていた。
残念ながら、誰一人として轢き殺すことは出来なかった。
それが今では人身事故率0を売りにしている。
当時、轢き殺さなかったことが、今、一応の役に立っているとは皮肉なものだなと思った。
あるまま駅の明かりが近付き、駅に入った瞬間、ホーム際で両手を広げ、綱渡りのようにバランスを取っているサングラスをかけた髭面の若い男が目に入ってきた。
「酔っぱらいめ」
遠目から睨み付けたその刹那、不思議と腹の虫が騒いだ。
続けてその男は片足立ちを始めた。が、すぐにバランスを崩して線路に転落しそうになった。
三上は慌てて警笛を鳴らして、再度、男を睨み付けた。男も驚いたように口を開けてこちらを見てきて、何とかバランスを立て直してホームの側に倒れた。
「危なかった……」
酔っぱらいで本当に良かった。
この十二年間、ずっと探し求めていたものがついに見つかったのだ。
いくら独自の研究を重ねても、どれほど全国や世界を回っても見つからなかったものが、見つかる時はこうも簡単に見つかる。
あのサングラスの男とは目が合った。
サングラス越しでも、もうあの顔は決して忘れない。
ははははははは、と三上は珍しく大声で笑い、緑のボタンの片方だけを気が狂ったように連打した。
そして、ひとひらの意志は自分に味方したのだと確信するのであった。

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