1-5 追跡者/風前の灯火(遥)

 地下鉄南北線でひとひら駅から北に三駅進んだところが、ひとひら大学附属病院前駅である。自然と融合した附属病院はオフィスビルだと言っても誰も疑わないほどの幾何学的な高層建築物で、孤高にそびえ立っている。

 幼い頃から虚弱体質だった藤井遙は、小学二年の頃、ひとひら大学附属病院に通うようになった。
 下痢、頭痛、めまい、悪寒、発熱、吐き気、倦怠感、体の痛み、生理不順、その他の不定愁訴……、元々はあってもせいぜい数種類で、放っておいても収まっていた症状が、近頃はその多くが現れて、しかも重かった。
 何度も様々な検査を行い、体中を調べた結果、どうやら大腸が悪いのだと分かってきた。更なる詳しい検査を受けて、その一週間後、遙は今、その結果を待っている。

 子どもの頃からお世話になっている土居先生ももう四十を過ぎているはずだが、この日は初めて見る小粋な丸眼鏡をかけていて相変わらずお洒落である。
「藤井さん、今度、お父さんと一緒に来てください」
「何でですか? もう結果は出てるんですよね? そんなに悪いんですか?」
「そういう訳じゃないんだが、お父さんにも伝えなければならないことがあってね」
「今、教えてください。お願いします! どんなに悪くたって、私、受け入れますから」
 遙は食い下がった。悪かった場合、父はどれほどのショックを受けるだろう。その姿を想像したら、ここで素直に従って帰宅する訳にはいかなかった。
「まだ未成年だからね」
「未成年は関係ありません。もう高校は出て社会人です。どうしても今知りたいんです!」
 今にも泣き出しそうな遙は、両手を力を込めて合わせて必死にお願いを繰り返した。心の中でも「お願いします!」と反復した。すると、遙の念力が通じたのか、土居先生の目の焦点が一瞬、彼女に合わなくなり、失敬と言ってから詳細を語り始めた。
「ある腸内細菌が大腸の腸壁を食べていて、至るところに穴が空いている。その穴から菌やウイルス、タンパク質なんかが血中に漏れて、様々な体調不良が生じているのだと考えられる。で、この腸内細菌には抗生物質も腸内洗浄も効果がない。ここまでが前回告げていた内容だが大丈夫かな」
「はい」
「どうやらこの腸内細菌は身の危険を感じると姿を消すようなんだ。どうしてそんなことが可能なのかまではちょっと分からない。とにかく、問題は腸壁の穴。大きくなるのに歯止めが利かなくて、このままでは大腸が生命に危険を及ぼす臓器になってしまう」
「生命に危険を及ぼす……。どうにかなるんですか?」
「大腸を摘出する他ない」
「え、それって人工肛門になるってことですか?」
「いや、肛門括約筋を残す方法があるので、その点は問題ない。それより問題があるんだ」
「何ですか?」
 土居先生は非常に言いにくそうな険しい表情をしていて、遙の方も緊張感で背筋がひきつる。先生はマウスを弄くり、内蔵の断面図のようなモノクロ画像をモニターに映し出した。指示棒で示した先に目を向ける。
「信じられないことにこれは膵臓がんなんだ。今まで検査しても全く見当たらなかった。我々が大腸摘出を検討しているのを分かった上で、渦中の腸内細菌が意志を持って、敢えて見つかりにくい膵臓を攻撃した、そうとしか思えないんだ。というのも、藤井さんと同様の腸内細菌を持っていて、これまた同様に膵がんを発症させた患者が一人いるんだ。偶然とは考えにくいから、少なくとも腸内細菌と無関係ではないだろう。この腸内細菌の正体は悪魔だと言わざるを得ない」
「え? え? どういうことですか? 腸内細菌にそんな力があるんですか?」
「ない。常識的にはあり得ない。腸内細菌が性格や脳の機能に影響を及ぼしているという研究は最近、発表されてきているが、流石にがんまで作る腸内細菌なんてのは聞いたことがない」
「膵臓がんは治るんでしょうか?」
「まず、手術が出来ないくらいに転移している。となると抗がん剤での治療となるが、大腸の問題も一刻を争うため、お手上げなんだ。大腸を摘出しても抗がん剤治療開始まで時間がかかる上に、抗がん剤での治療が期待出来ないくらいにがんが進行している。まず、治療すべきかどうかの判断が必要となる」
「ち、治療すべきかどうか!? しなければどうなるんですか!?」
「しなければ……、どのくらい保つかは正直分からない。その判断も必要だからお父さんと一緒に来て欲しい」
 遥は胸に手を当てて深く深呼吸してから端的に答えた。
「分かりました。ありがとうございます。ちっちゃい頃から長くはないんだなって漠然と思ってたんです。治療はしません
「治療はしない!? お父さんにも説明するからよく考えて欲しいんだ」
「考えても助かる見込みは低いんですよね? 手術して抗がん剤治療したら余計に苦しいんですよね?」
「まあ、そういうことにはなるが……」
「なら、迷うことはないです。ありがとうございます。また来ます」
 まだ何か言いたげだが言葉が出てこない様子の土居先生に何か言う隙を与えずに診察室を出た。
 そのまま地下鉄に向かった遥の目的地は、地下鉄南北線の北の終点・ゴーラス海前駅である。

 今年最後になりそうな週末の夏日、さざなみ霊園は年輩の方々で混雑している。
 ひとひらでは遺灰をゴーラス海へ撒き、遺骨をこのさざなみ霊園に埋葬するという風習がある。遙の母もゴーラス海へ帰ると共にこの地下で眠っている。
 海の波音は墓地まで聞こえる。
 潮と芝生の入り交じった匂いが、母に報告してきた数多の内容を思い出させる。もう秋の色味を帯びた乾いた空気を胸一杯に吸い込んで、さあ、私はもうすぐ自然に帰るんだぞと、遙は気丈に自分に言い聞かせた。
 到着した母の墓標の前にしゃがみ込み、遙はそのまま声を出して話しかけ始めた。
「お母さん、私、駄目みたい。はあ、誰かと一度交際してみたかったな。愛し合える人がいればまた違ったのにな。でももうすぐまた会えるね。お父さんが心配だよね。そう思うよね?」
 高校の入学式後、一緒に帰宅した父が深刻な話題に触れてきた時の場面が瞼の裏に浮かんだ。当時住んでいた古い家のカビ臭さまでもが蘇ってくる。

「ここだけの話、お父さんには叶向《かなた》が自殺したとはどうしても思えないんだ。確かに自殺した姿で発見されたけど、あれは自殺に見せかけた他殺なんじゃないかと思っている。ごめんな。いきなりこんな昔のことを言い出して。遙も高校生になったから伝えておくべきかと思ってな」
 仕事でもプライベートでも真面目な父は、言うべき時機をよく考えてくれる。にしても、ここは自宅で他に誰もいないんだからそんなにコソコソしなくたって良いのに。
「私も思ってたよ。ちっちゃかったから何も分かってなかったのかもしれないけど、お母さん、凄く強くて優しかったもの。幼心でも自殺する人じゃないって感じてた」
「遙はよく分かってる。叶向は本当に強くて優しくて皆に気配りが出来て明るくて悩みなんてなさそうで誰からも愛されていて自殺するような人じゃなかった」
 母のことを今でもこよなく愛しているのは毎朝欠かさず母の遺影の前でお祈りしているから伝わってくるが、寡黙な父がここまで褒め言葉を連発するのは初めてだった。今でも物真似をしておちょくることがあるくらい笑える言葉の羅列である。

「あの時のお父さん面白すぎる」
 遙は爆笑を堪えきれなくなった。
 単に自殺ではないと思い込みたかっただけかもしれない。だが、自殺と他殺では持つ意味が全く違う。十年以上も経った今、考えても仕方がないことだと遥は思い直し、墓標に、またすぐ来るねと別れを告げて、霊園からすぐのひとひら市図書館に向かった。
 頭痛に加えて、わき腹やふくらはぎにも痛みが走り、帰ろうとも思ったが、こんな痛みなんかに屈して溜まるものかと決して挫けなかった。

 遙は図書館をよく利用する。
 静かで、いる人たちの層が好みに合った。また、併設のカフェからはコーヒーの深みのある香りが漂ってきて気持ちを落ち着かせてくれる。
 そんな図書館も、今は心地良い場所ではなかった。エレベーターがなく、二階への階段を上るのに骨が折れた。上りきってからも、お目当てのコーナーを見つけるために本棚と本棚の間を歩き回る必要があった。
「健康本、健康本……。あった」
 普段、滅多に読むことのない健康本のコーナーに来たのは、死の宣告をされても、何か治るための手がかりがないかと思ってのことである。藁をもすがる思い、というのはこういう気持ちなんだろう。どうせ駄目だと分かっていても、助かるためには何だってしたい。遙は、怪しい民間療法に手を出す人の気持ちが何となく分かったような気がした。
 本の背表紙のタイトルを見て、自分に関係ありそうな本を探していく。『すい臓がんステージⅣから帰還した人々』という新書をまず手に取る。続けて『腸内細菌の神秘』というソフトカバーの背表紙に手を触れると、その右の方に変わったタイトルの本があるのを発見した。『入口と出口の哲学』というソフトカバーの本で、健康本とは思えないタイトルに惹かれて、その背表紙に手を伸ばして引き出した。
 表紙を見て思いがけない著者名が目に飛び込んできた。
 その名前は、藤井叶向。
 こんな変わった名前は母以外にいる訳がない。本を出版しているなんて知らなかった。
「お母さんが死ぬ直前に出版されてる……」
 遙はパラパラとめくって立ち読みを始めた。食事や生活面に関する普通の健康本のように思えたが、これは借りてじっくり読まなければと思った。四章は「腸内環境について」でもあり、何か関連があるかもしれない。三冊を右手に抱えて、左手では手すりを頼って、今度は階段を降りていく。自動のレンタル機にバーコードを読みとらせて、出てきたレシートを受け取る。
 遥は刻印されている日付を記憶して、そのレシートを上着のポケットの中でくしゃくしゃに握り潰した。

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