「今日の講義、良かったよね?」
大道《おおみち》蓮は隣の席の友人にニーチェ哲学の講義についての感想を求めた。彼の指は細長くて、蓮にはグロテスクに見えたが、こういう指が女性受けするのだと思うと不条理さを感じた。自分の指は短くて太い。
「うん、楽しかった。ニーチェの著書、今度、読んでみようかな。じゃ、お先」
友人は席を立って講堂を出ていった。
ニーチェ哲学の中でも「健康と病気」の概念を中心に据えた講義に、蓮は共感を覚えた。
健康な人間とは「身体にかかる負荷を悦ばしいものとして引き受ける人間。さらには、自ら進んで身体に負荷をかけることにより、健康を確認し満足を得ようとする意欲を持った人間」であり、病人とは「自分の身体に負荷がかかることを避け、身体の休息と保護を欲求する人間」であるとのことだった。
これは身体だけの問題ではなく、認識にも適用される。
認識に負荷をかけられる健康な人間とは、生存が苦痛に満ちたもの、無意味なものだという悲観的な認識を認め、それを生存のための心地よい刺激として受け入れる存在のことである。一方、病人は、宗教や思想などに慰めを求め、思考停止して生きていく存在ということになる。
この点から、健康な人間には健康な人間特有のものの見方があり、病人には病人特有のものの見方がある。そして、ニーチェはそのどちらにも精通しており、自身をドッペルゲンガーと規定しているらしい。
蓮はここに共感を覚えた。
というのも、うつ病を患って世界観が一変した経験を持っているからである。
うつ病になる前は、高校の倫理の授業で、昔の人は変なことを考えるんだなくらいにしか思っていなかった。しかし、うつ病発症後は、倫理の存在意義をよく理解出来たし、高校の倫理を復習するほどだった。
また、他人にも自分にも厳しい考え方を持っていたが、今では、どちらにも優しい考え方を持つようになった。世界の変化のためには戦争すらいとわないと考えていたのに、戦争は断固反対という立場を取るようになった。
つまり、蓮はニーチェの言う健康な人間の視点と病人の視点のどちらも持っているドッペルゲンガーなのではないか?
うつ病の症状については、現在、抗うつ薬による治療である程度安定している。
ここ、ひとひら大学は国立の総合大学で、市内の高校生が最も目指す大学である。入学すれば、ひとひら市民から一目置かれることになる。
蓮は家がサラブレッド生産の名門なみだみち牧場のため、親からひとひら大学の獣医学部か農学部に入るよう期待されていたが、二浪しても合格出来ず、結局、諦めて三浪目で文学部に入学した。
親の期待に応えられなかったことがうつ病の原因だろうと、話す機会があれば言っている。本当は蓮は、大学に入っても全く彼女が出来ないことの方が原因としては大きいと思っている。
この日の講義は昼で終わり、蓮は駐車場に向かい、自慢の車でそのままマグノリアに帰宅した。
居間で安定剤を飲んでいると、健人がハイテンションで喋りかけてきた。
「聞いてくれよ! 朝によ、めっちゃ良い声の可愛い地味っ子が依頼しに来たんだよ。やっぱりああいう子に弱いんだよなあ、俺」
健人は顔を左右に激しく振り回して、その顔をくしゃくしゃにしている。
「そうなんだ。どんな依頼?」
「十二年前に自殺したとされている母が、本当は他殺なんじゃないかという依頼だ。でも十二年前だし、本人としては、母のこと何か少しでも分かれば良いらしい。そこで、蓮君にお願いがあります!」
「何? また面倒臭いお願いなんでしょ?」
「この本をご覧ください! この本は、クライアント、遙ちゃんのお母さんが死の直前になって出版したものでございます! 蓮君にはこの本を読んでいただきたい!」
「その口調何なの? そんな大事な本なら自分で読んだ方が良いんじゃない?」
「俺は読むの遅いし、理解力も足りない。だから頭脳明晰な蓮君が読んだ方が圧倒的に効率が良いのであります!」
健人の手から本を奪って、パラパラとめくってみた。『入口と出口の哲学』というタイトルを見て面白そうだなと思ったが、中身は普通の健康本のようで、興味ある分野ではないなと感じた。
「そんな分厚くないじゃん。分かった。時間見つけて読んでおくよ」
「流石、蓮様! いつも頼りにしております!」
本当に都合のいい男だが、どうしても憎めない。この男なら、どこか未開の地へ連れていき、原住民たちの間に放り込んでも普通に仲良くなっていそうである。
「じゃあ、俺は競馬行ってくるわ。ナミダミチモクレンが出るから応援しねえとな。記念の単勝馬券買ってくるから頼んだぜ」
「は? 人に読書任せて、自分は遊びに行くの? 信じられねえ……」
「まあまあ、お堅いことは言わずに。じゃ!」
健人は玄関までまっしぐらに駆け出し、外へ飛び出して行った。
今更、記念馬券なんて。
なみだみち牧場の期待馬として蓮の名前を最後に付けたナミダミチモクレンは中央でデビューしたが、一勝も挙げることが出来ず、ひとひら競馬に移籍してきた。都落ちのようなものである。
対して、不仲の弟の名前を付けられた、モクレンの一個下の弟ナミダミチイツキは中央のデビュー戦を快勝し、続く重賞も制覇。今後の飛躍を期待されている。弟の樹はひとひら大学の獣医学部に現役で入学して、危うく同学年になるところだった。
サラブレッドに蓮兄弟の名前を付けたのは父であるが、二人の学歴の差が競走馬の戦績にも表れたように見えるため、あまり話題にしてこなくなった。馬名にするなら、そこまでの想像力を働かせるべきだと父を責めたことがある。
「あ、ああ、確かにそうだな、すまん」
これだけで終わった。こちらとしても、学費、生活費、普通の学生なら住めないような家の家賃、高級車の購入代金、全て出してもらっているので、強く言うことが出来ない。
健人と仲良くなったのは競馬のおかげだ。
小学五年生の時、ひとひら競馬からデビュー後、中央移籍して現役最強馬にまで上り詰めたナミダミチクライを家から送り出して、学校では鼻が高くなっていた頃、違うクラスの健人が話しかけてきた。クライに惚れ込んでいる、引退したら乗せて欲しい、という話だったと記憶している。
乗せる、という約束は実現した。
クライは種牡馬としては大失敗。有名なスタッドから、なみだばね町内の小さなスタッドに移籍したので、そこまで父の車で向かった。健人は乗馬経験はあると言っていたので、そのまま道具を渡して乗ってもらおうとした。いざ、乗るという時になって「どうやって乗るの?」と聞いてきたから、きっと乗馬経験はなかったのだろう。
クライに乗った時の健人の目の輝きと笑顔は、彼も同学年の男子なんだなと初めて思うくらいのものだった。何度でも自由に乗ってもらいたいとこちらが思うくらいの喜びよう。何度も乗っている自分は感動なんて忘れてしまった。
この時の体験を機に、健人との間柄は親友と呼べるくらいまで深まっていった。
クライの血を受け継いだ数少ない一頭がナミダミチモクレンである。
今度はモクレンに一緒に乗りたいなと蓮はふと思った。
モクレンは中央で二着や三着を繰り返してきた。ひとひら競馬で三勝すれば、また中央に戻れるルールである。そのためには、今日のメンバー相手に負けていられない。
もう出世は諦めていたつもりなのに、まだモクレンに期待している自分がいる。
まさか負けないと思うけど、大丈夫かなと心配になり、蓮はリモコンで地方競馬番組にチャンネルを切り替えた。

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