「ナミダミチクライ、六連勝!」という見出しが、ひとひら毎日新聞の一面に躍っている。競馬に興味のなかった健人もこのサラブレッドの写真越しでもはっきりと分かる黒光りした筋肉質な馬体にすっかり魅せられている。
あと一戦で中央に移籍してしまうことを思うと、最後のレースを生で観たくて仕方がない。
「母さん、多分、来月の平日、ひとひら競馬場に連れてって。強い馬出るんだ」
「あんな汚くて臭いところは嫌。それに平日は学校でしょ」
やはり母からは期待した返事が返ってこない。
「ナイターなんだよ。学校終わってからでも間に合うんだ」
「汚いから嫌よ」
健人は黙り込むが、このまま大人しく引き下がるつもりはない。
レース当日、学校が終わってから一人でなみだばね町からバスに乗ってひとひら市まで向かう。車内には、スポーツ新聞や競馬新聞を広げているおじさんたちがポツポツと目に付く。健人も彼らを真似てスポーツ新聞を眺める。ひとひら十一レース、クライの名前の下には◎が六つ綺麗に並んでいる。クライが圧勝する場面を何度も頭の中でシミュレーションする。
ひとひら市に到着する。
田舎のなみだばね町とは違って、次にどうすれば競馬場まで行けるのか検討も付かない。駅員に経路を尋ねると、地下鉄の競馬場前駅があるから競馬新聞を持った人に付いていけば分かるだろうと教えてくれる。
地下鉄内は満員で蒸し暑く、着てきた上着を脱いでTシャツになる。狭苦しい場所でも立ちながら競馬新聞を見ている客たちに押し潰されそうだ。
「まもなく、競馬場前。降り口は右側です。開くドア、足元にご注意ください」
車内アナウンスと共に、健人は古い記憶から我に返った。
あの時、満員だった車内は今はガラガラ。
駅を出ると、すぐにひとひら競馬場の入口が見える。大きなレースが行われない競馬場のゲート付近には、入場者のチケットを切る係員の女性二人以外、数名の客しか見えない。
百円のチケットを切ってもらい、競馬場内に入ると、芝生を踏んでゴール前の柵まで向かった。特等席の柵に腕をかけた先客が、何とこの時間にいる。しかも、黒っぽいワンピースを着た、細身の若そうな女性だ。
健人はその顔に期待しながら、女性の右に行き、右肘を柵に乗せた。おばさんだったら、人違いでした、で済むと思いながら見た横顔は、一瞬、声を失うくらいに美しかった。切れ長の鋭い蒼い目で、遠くの方を儚げに見ている。
「わお、凄い美人さんじゃん。一人で早くから競馬?」
馬糞臭い競馬場には似つかわしくない異国風の蒼い目が、健人の顔を見つめる。
「……競馬場は初めて来たの。常連さん?」
「そう、その常連さん。初めてなら競馬場の楽しみ方、一から教えようか?」
健人はサングラスを髪の生え際のところまで上げた。すると女性はどこか驚いたような表情をして、健人の目を見据えてきた。
「じゃあ、お願いしようかしら。あまり時間ないけど」
「よしきた。競馬のことは任せてくれ。じゃ、スタンド行こうぜ」
ここの名物はビールとモツ煮込みセットだと教えて、健人は二人分をスタンド内の売店で購入した。女性は奢ったことへの感謝を口にしたが、どうも笑顔がない。スタンド内のまだがら空きの椅子を適当に選び、並んで座って乾杯した。
「お姉さん、名前は何て言うの? 俺は健人」
「私は小川」
「いや、お姉さん、そこ、名字じゃなくて下の名前で答えるところだし」
「沙羅。小川沙羅」
「沙羅って、それ、本名?」
「それ、よく言われるの。本名。健人君は名字は?」
「俺は川端。川端健人。沙羅って西欧みたいでカッコいい名前じゃん。目も蒼いし。それと健人君はやめてくれ、ガラじゃない。健人って呼び捨てでいい」
「そう? 私から見たら、君付けが似合うんだけど」
沙羅が初めて悪戯っぽく笑った。こちらが主導権を握ろうとしているのを見抜いて、完全にからかってきている。こうしたからかいに乗るのも悪くはないが、まずは様子を伺おうと思った。熱々のモツ煮込みに息を吹きかけて冷ましていると、割り箸でモツを器用に掴んで次々と口に運んでいく沙羅が「サングラス、ない方が可愛いわよ」と煽ってくる。
健人はわざと不機嫌そうな顔をして無言でサングラスをケースに締まった。横目で沙羅を見ると、にやけている。拙い、不機嫌そうな態度も可愛いと思われてしまったのかもしれない。
脚を組んでその上にスポーツ新聞を広げた。
「よし、一レース賭けようぜ」
健人は簡単にレクチャーした。レースは六頭立てで行われること、中央でも二、三着を繰り返してきたナミダミチモクレンが圧倒的一番人気であること、二番人気のデスリーも中央から移籍してきた馬だが、惨敗ばかりだったこと、三番人気以下は、ずっとひとひら競馬で走ってきた馬で能力的には一枚も二枚も落ちることを伝えた。
「で、健人はどう買うの?」
「モクレンの単勝」
そう答えながら、自分と蓮の分のマークシートを塗り始めた。
「それ、1.1か1.2倍でしょ? そんなの買って面白いの?」
「モクレンは俺のダチの牧場の馬なんだ。だから応援馬券って感じで買う。お遊びみたいなもん」
「へー。じゃあ私はひとひらの馬四頭の単勝を全部買うわ。余所者に負けたくないもの」
「いいのか? 絶対に来ないぜ?」
沙羅の鉛筆の先がマークシートの「万」のところを黒く塗り潰している。
「沙羅、それじゃあ一万になるよ」
「一万円を四頭分買うつもりなの」
「え!? マジで言ってるの? 絶対来ないからやめておけって」
「いいの。一万円札なんてただのひとひらの紙切れじゃない。健人は幾ら賭けるの?」
「応援馬券二枚百円ずつ。これは当たっても換金しない。他にはモクレンの単勝千円……」
照れ臭そうに言った健人のことを沙羅がまた悪戯っぽく笑った。
「それじゃあ儲け出ないわね。中央から来た馬とひとひらの馬、どっちが勝つか、個人的に賭けない? 負けた方が勝った方の言うことを聞くって約束で」
「話変わるけど、沙羅、いきなり四万も賭けるなんて、どんな仕事してんの?」
「もしかして、私が裏情報でも持ってるとでも思った? 持ってないよ。名刺あげるね」
鞄の中から取り出した名刺を受け取る。
「『海の教団 会長補佐』……。聞いたことがある。新興宗教だろ? 会長補佐ね、道理で金持ってるって訳だ」
「大した役職じゃないけどね。新興宗教って聞いても普通なのね、世間じゃ疎まれる立場なのに」
「ああ、俺はそういうのに無頓着なんだ。実際に人を見てどういう奴かは判断する」
「ふーん、なかなか素直な考え方持ってるわね。どう? 賭けよ? 健人の望みは何?」
「……そうだな、難しいな。じゃあ俺が勝ったらまたデートしてくれ」
「これってデートだったの? そのつもりなかったけど」
沙羅はそう言って笑って、今、流行っている『End of Summer』という恋愛ソングを鼻歌で歌い始めた。
「良いわよ。じゃあ、私が勝ったら、私を守って。私が危険な目に遭ったり、死にそうになったりしたら、スーパーマン、あるいはピーターパンのように現れて、私を救って」
「おいおい、エスパーじゃないんだから、そんなの予測も出来ないし、飛んでも行けねえぞ」
「努力だけで良いの。その努力をして」
「……変なお願いだな。分かった。努力するよ。まあ、俺の方が勝つから関係ないけどな」
宗教団体のお偉いさんってのは、悉くメンヘラなのかと思うが、単にまたからかっているだけかもしれない。
馬券を購入して、再び、ゴール前の柵まで移動する。距離は千二百メートルで、スタート地点はこちらからはほとんど見えないスタンド奥からだ。
「帽子の色で馬を判断するといい。俺のが白と青だから沙羅の馬はそれ以外だな。遠くで見えないからゴール板来るまではターフビジョンでレースは確認するといい」
「分かった」
ファンファーレが鳴り、枠入りが始まった。
馬券を買う前からずっと嫌な予感がしていたのだが、ターフビジョンに黒光りしたモクレンの馬体が一番枠に収められる姿が映し出された時、その予感の正体が判明した。あの時のクライも一番枠で、そして出遅れたのである。
「第一競走の枠入りが終わりました。スタートしました!」
ターフビジョンを見て、思わず「あ!」と声が出た。
「一番人気のナミダミチモクレン、二番人気のデスリー、共に出遅れました」
沙羅が左肩を叩いてきて、してやったりという笑顔を見せる。舌打ちしてターフビジョンに目を戻す。モクレンは最後方。デスリーはその僅か前。
「ダートスタートに慣れてないから滑るんだよ。能力は抜けてるからここからでも余裕で交わせる」
「先頭は六番バックファイア。続いて三番ユードゥー、五番パヴロフスベル。その後ろが二馬身離れて、イッツノット。デスリーが追い上げていく。ナミダミチモクレンは最後方からの競馬です!」
あの時のクライも今までにない出遅れをして、場内騒然となっていた。しかも、モクレンと同じ沼沢騎手。健人の頭の中は、今、目の前で行われているレースではなく、ひとひらでのクライ最後のレースで一杯になっていた。
「おい、沼沢! 早く追い出せ!」
隣にいるおっさんが恥じらいもなく叫んでいる。
クライはずっと逃げて勝ってきた馬だから砂を被ったら万が一があると新聞に書いてあった。他の騎手たちも最後だけは勝たせまいとしてクライを外に出させない。内に閉じこめられたクライは思い切り砂を被って頭を上げていた。
健人はおそらく人生で一番の緊張感を味わっていた。
三コーナーの半ば、ようやく外に出せるスペースが空く。
クライは外に出して、騎手の手綱しごきに合わせてグイグイとポジションを上げていく。
まだ、先頭の馬は二番手に六馬身ほどのリードを保っている。
四コーナーでようやくクライは二番手まで押し上げた。
直線は短い。
「ナミダミチクライ、ピンチか!? ひとひらでの最後を勝利で飾れるのか!?」
先頭の馬もひとひら競馬では最強クラスの馬だ。
みるみる差が縮まっていく。
「五馬身! 四馬身! 三馬身! 二馬身! ナミダミチクライ、物凄い末脚で追い込む! 内ラチ一杯をワイズアップが粘り込む! 届くか! 届くか! 届くか!? 二頭完全に並んでゴール!」
どっちが勝ったのか分からなかった。
その瞬間、場内は大騒然。
こんなに多くの人が慌ただしくなる場面に初めて遭遇した。
ターフビジョンにスローモーションが映し出される。
スローだとはっきりと分かる。
僅かハナ差で、クライは負けたのだ。
落胆の声と罵声が飛び交った。こんな強い馬が負けることがあるんだ、あんなに後ろから行ってもあそこまで追い込めるんだと、健人は興奮を隠せなかった。
「沼沢!」
健人は目の前のレースでそう叫んでいた。あの時のクライと同じように三コーナーから上がっていったモクレンは、最後の直線で、逃げたバックファイアを射程圏に捉えている。
直線半ばで、脳がショートしたように健人の目の前から情景が消えた。
サングラスをケースから取り出してかけて、電光掲示板を見る。
一、二着は写真判定。
「どっちが勝った!?」
「観てなかったの? 良かったわね、ナミダミチモクレンが勝ったわよ」
その瞬間、健人は安心感から体の力が抜けて地べたに尻を付いた。
「何? そんなに私とデートしたかったの?」
「ちげえよ。俺にとっちゃあ、思い入れがある馬が勝ったから安心したんだよ」
「へー、競馬ってそんなに熱くなれるんだ。私なんて、ここの馬、全部、屠殺されちゃうのかなーってことばかり考えてた」
「まあ、裏事情は分からないが、走らない馬の大半は屠畜場送りだな。競馬ファンなんて、それを知ってて現実から目を背けるクソばかりだ。自分がクソだと分かるのが競馬ファンのメリットだな」
「健人も?」
「俺は違うな。沙羅がピンチの時には救いに行くスーパーマンかピーターパンだ」
「賭けに負けたんだから、それは忘れて良いよ」
健人は頭を軽く叩かれた。
「そろそろ時間だから行くね」
「何の用事があるんだ?」
「んー、パパを捜しに行くの」
その年で迷子? な訳ないから売春? 幾ら? と聞こうと思ったが、立ち上がって「行方不明にでも? 俺、探偵やってるんだ。捜そうか?」と言い、名刺を渡した。
「へー。探偵なんてやってるんだ。納得した。これでお互いの連絡先分かったね? パパのことは大丈夫。デートのお誘い、待ってる」
沙羅はスタンドの方へ向かって去っていった。
何故、宗教団体の会長補佐をしている美女があんなフォーマルな服装で、ひとひら競馬場に真っ昼間から一人で来ているのだろう?
救って、という冗談とも本気とも付かない願いのことも踏まえると、彼女の蒼い目の奥にはどこか闇があるように思えた。
あと、パパって何? お金くれるおっさんのことじゃなくて、神様のこと?

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