1-10 マグネット/マグノリア(杏)

 マグノリア二階の寝室で、ベッドに仰向けになっている寺原杏はスマホで出会い系サイトを覗いている。メールボックスにあっという間に溜まった百件近くのメールを流し見して、文面がまともな男のプロフィールを読む。
 雨音が響いてくる。
 天気予報アプリに画面を切り替えると、夜九時の降水確率は0%。ただの通り雨かなと思ったが、雨音は強まる一方である。これは健人、ずぶ濡れで帰ってくるなと思い、スマホをベッドに放置して一階に降りた。
 給湯器の自動湯はり機能を、多少、ぬるくなるのを考慮して四十五℃にセットした。

 二階に戻ってベッド上のスマホを手に取ると、丁度、健人からメッセージが届いている。
「一人、マグノリアに連れてくから」
 返信は後回しで、急いで化粧直しをして恥ずかしくない服に着替えた。
「どんな人?」
「もう着く」
 一階の居間のソファで、スマホを見ながら何度も時間を確認するものの、なかなか帰ってこない。
「湯はりが終わりました。風呂の蛇口を全て締めて、湯はりボタンを押してください」という音声が聞こえて、そう時間が経っていなかったことに気付く。蛇口を締めているところで、玄関の開く音が聞こえた。

 玄関まで出迎えると、ずぶ濡れの健人に支えられた浮浪者のような中年男性がいる。
 杏は思わず顔をしかめたが、笑顔を作り直し、よそ行きの高い声で言った。
「ようこそー! いきなり降ったから濡れたでしょー、早く入ってください」
 来客がうなだれているのを確認してから、健人を睨み付けてタオル二枚を手渡した。このまま迎え入れたら家中に充満しそうなほどの悪臭がするので、鼻呼吸を止めた。
 健人の野郎、また野良猫を連れてきやがって。
「この人、山田のおっさん。具合悪いんだ。休ませてやってくれ」
「山田さん、初めまして。お風呂沸いたばかりなので、是非とも、一番風呂に入ってください」
「初めまして。ちょっとお風呂は入る気力がなくて……。ちょっと横になれるかな?」
「ここのお風呂、凄ーいんですよ。広いから横になれますよ」
「おい、杏、風呂なんか入れたらそのままぶっ倒れるだろ。ちょっとは考えろ」
 ちげーよ、すげーくせーんだから、ここ汚されたくないっての、察しろよ、と杏は内心、苛立ちながらも急いでバスタオルを何重にも重ねた簡易敷き布団を作った。押入れの中から、もう利用しないであろう毛布を用意した。居間の窓を全て開けてストーブを焚いた。
 山田はバスタオルの上に倒れ込むようにして横になった。健人がその上に毛布をかけた。悪臭は相変わらず悲惨なものだが、多少は慣れてきた。
 鼻を摘んだ杏は健人を睨み付け、力を込めて中指を立てた。健人も声を出さずに笑い、中指を立て返してきた。
「杏、何か温かい食べ物用意してあげて。腹も空いてるらしい」
 杏は無言でキッチンに向かい、こしらえておいたビーフシチューを温め始めた。はあー、と思い切りため息をついてやったが、向こうまで聞こえているかどうかは分からない。
 温まったビーフシチューを皿に移して、居間のガラス製のローテーブルにわざと大きな音を立てて置いた。
「どうした、杏、生理か?」
「はあ?」
 ヤクザが恫喝する時のような声を放った。
 すると、山田が体をビクっと震わせて起き上がった。その風圧で悪臭が鼻にまとわりついてくる。
「山田さん、温かいビーフシチュー出来ましたよ」
「ありがとう」
 スプーンを握った山田は、貪るようにシチューをすすり始めて、瞬く間に平らげた。健人はテレビを見ながら、暢気に食べている。
「山田のおっさん、元気出た?」
「生き返ったよ。こんな美味しいシチュー食べたの初めてだと思うくらい。ありがとう。何さんだっけ?」
「私、杏です。山田さん、濡れたままだと風邪引いちゃうから早く風呂入らないと!」
「あ、ああ、すまないね、待たせてしまって。お風呂はどこ?」
 どうやら食べ物にありついて息を吹き返したことで、ようやく風呂まで促していることに気付いたらしい。浴室まで案内する。
「おっさん! 何か必要なもんあったら言って! 着替え、こっちで用意しておくから!」
 まだシチューを食べているだろう健人が大声で指示して、山田が応じる。
 杏はシャワーの流れる音を確認してから居間に戻った。

「てめえ、何て奴連れてきてんだよ」
 杏は健人の背中を思い切り蹴飛ばした。
「ぶはははは。わりい、マジで杏の反応、面白かったわ。地下鉄で会って瀕死だったからよ、放っておけなくて。野良猫みたいなもんだ。杏が猫飼うの嫌がるから悪いんだよ」
「私が潔癖性なの知ってるでしょ、ほんっとうに! 最低!」
「何かさ、時間のない世界に行きたいんだとよ。ここなら、時間忘れて徹マン出来るだろ。風呂から上がったおっさんは清潔になってさっきと別人だ、安心しろ」
「てめえがあのおっさんの服とか全部洗濯しろよな。あと、お前も風呂入れよな、臭い移ってるぞ」
 騒がしさのせいか、眠っていただろう蓮が二階から降りてきた。髪に寝癖を付けて、小さくあくびしている。
「ここ凄く臭いけど、何かあったの?」
「ぷっ! 色々あったんだよ。な、杏? あ、そういえばモクレン勝ったな、ギリで。応援馬券あとで渡すわ」
 笑えもしないことを笑って話す健人に、杏はよく腹立たせられる。
「順当でしょ。かなり危なかったけど。ていうか、健人、綺麗な女の人とゴール前に一緒にいたでしょ、テレビに映ってたよ」
「ああ、いたいた。ナンパしたら成功したんだよ。マジで美人だったぞ。次のデートの約束までしたぜ」
 自分の前で、他の女性との話を平気でする無神経さにもよく腹立たせられる。蓮も蓮で、そういう話を羨ましそうにいつも聞くから図に乗るのだ。
「そういえば、本読んだ?」
「今読んでる途中。今のところ、特別変なところはないよ」
「何? クライアントの本、蓮に読ませてるの? 最低じゃね? 蓮もそんなん引き受けるなよ」
 私から目を逸らして、健人を見て助けを求めている蓮の優柔不断さにも腹が立つ。もう何もかもに腹が立って仕方がない。
「今、山田っておっさんが風呂に入ってる。あとで徹マンするぞ」
 そうやって勝手に仕切っている健人にも腹が立つ。自分が何もかも世話してあげてるのに、感謝の姿勢を見せない男どもに腹が立つ。
 気を落ち着かせようとして杏は二階へ上がり、痛み止めの薬を二回分まとめて飲んだ。

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