1-11 Straight Girl(杏)

「山田さーん。着替えと新しい歯ブラシとひげ剃り、洗面台のところに置いておくので、自由に使ってください。ドライヤーも勝手に使って良いので」
 分かったという曇った返事が聞こえる。
 汚された部屋と湯船に浸かっているだろう山田を清潔にするため、杏は抜かりがなかった。
 山田が寝ていたバスタオルと毛布、そして脱いだ服と下着を洗濯機の中に放り投げた。
 続けて、彼が歩いてきた道筋をフローリングワイパーで磨いた。カーペットだけは踏まれぬよう死守したが、玄関マットは折りを見て洗濯しなければならない。一時凌ぎで、消臭剤を十回ほどプッシュしておく。石鹸の香りの部屋用消臭剤を寝室から持ってきて居間中に噴射した。汚れた健人も着替えさせた。食器を洗い、手を洗い終えて、これでひとまず一通りの仕事はやり切ったはずだ。
「結局、全部、私がやったんですけど」
「流石! ありがと!」
 健人はソファに横になったままこちらも向かずに言った。
「気持ちのこもってない礼は要らねえ」
 
 山田が風呂から上がってきて、最高の風呂で疲れも痛みも吹き飛んだ、元気になったと喜んでいる。
 その顔からは髭がなくなって、真っ直ぐな髪の毛や顔面の油分も取れて乾いている。身嗜みさえ整えれば、案外、清潔感のある顔立ちをしていることが分かった。人懐こい目をした山田は、中年男性なのに無神経そうなところがないどころか、むしろ、少年のように下ろした長い前髪も相まってとても繊細そうだ。健人の猫柄のパジャマに着替えているのもあって、とても可愛らしく見える。石鹸の匂いの方が強いのか、酒臭さもしない。ここまで変わるとは女の化粧の比ではないが、驚きものである。

「山田さん、凄く良くなりましたよ。来た時は本当に心配になるくらいだったのに」
「え、そうかな、心配かけてごめん。ありがとう」
 風呂上がりの赤くなった頬でモジモジしている姿もいじらしく感じる。
 皆揃ったところで、風呂に行こうとする健人をちょっとだけ呼び止めて、蓮をここの家主だと山田に紹介する。実家がなみだみち牧場という大きな牧場だと教えると、山田と蓮の二人で今日出た馬の話題で盛り上がっている。
 山田はこの後の麻雀にも乗り気の様子だ。
 どうやら上手くやっていけそうだと分かり、落ち着きを取り戻している自分に気付く。
「蓮か杏、次入る?」
 風呂から上がってきた健人が聞いてきたが、山田の後は絶対に入りたくない。
「化粧落ちるからいい」
「俺も朝シャワーだけでいい」
 いざ麻雀を始めようという時になって、山田が「ごめん、僕、競馬で負けてお金がないんだ」と言い出したが、健人は「金は今度でいい。それに勝てば良いだけだしな」と言い、早く始めたそうに麻雀卓を二階まで取りに行った。

 東一局。
「山田さん、どういうお仕事してるんですか?」
 配牌が悪いので、端に寄せた沢山ある不要牌を切りながら話題を振った。
「いやあ、恥ずかしいんだけど、一応、小説家をしてるんだ。それだけじゃ食べていけないからアルバイトもたまに」
 皆、一様に驚いた表情を見せる。なるほど、繊細そうな雰囲気を醸し出しているのにも合点がいった。文学部の蓮が特に興味津々で、代表作は何かと聞いている。
「今はもうほとんど売れてないんだけどね。昔に書いた『置き去りの少女』ってのが、一番売れたかな」
「え!? 読んだことありますよ! 山本|竜也《りゅうや》先生ですよね!? 今、ウチに文庫本ありますもん。楽しかったです! サインくださいよ」
「しばらくサインしてないからなあ」
 健人と杏の方を一瞥した山田は随分と恥ずかしそうだ。小説は読まないから大した興味はないけれども、杏以外の三人でどんな内容なのか、どう面白かったのかなどで盛り上がっている。その姿を見て、これがマグノリアの良いところだと誇らしげに肯きながら、杏は話に耳を傾けていた。
 誰も上がることがなく、和気あいあいとした雰囲気で親が回っていく。
 最後に親の回ってきた杏が、牌を親指と人差し指で持ち、右回りに回転させて、中指でマットに叩きつけた。杏がここぞという時に使う牌の切り方だ。
「リーチ!」
 場に緊張感が走る。
 次に牌を切る山田が「プロみたいな切り方だね」と、目を見開き、唇に指を当てている。どうやら捨て牌に困っているらしく、考え込みながら「杏ちゃんのネイル、可愛いね」と褒めてきた。
 杏は思わず、牌の上に置いた手を、爪を隠すようにして握った。
「あ、わー。男の人ってネイルに興味がないのかと思ってた。山田さん、流石小説家ですね」
 感心を装い、何とか動揺を隠そうとする。
 杏には昔から爪を噛む癖があり、自爪の先はすり減ってガタガタだった。それをみっともなく思っていて、ラメ入りのピンク色の付け爪をいつも付けている。一緒の寝室で寝ている健人にも自爪を見せたことがないくらい気にしている最大のコンプレックスがバレてしまわないか、内心穏やかではなかった。
 リーチをかけた時に指摘されて良かった。
 捨て牌に悩む心配がない。
「おっさん、杏の手、震えてるからかなりデカい手だぞ。振るなよ」
 丁度、上がれば、リーチ、チートイ、ホンイツ、の跳満確定の手で、健人の勘違いが都合良く的中していてくれて助かった。
 結局、杏はツモれず、誰も振り込みもせずに、その局は流れて終わった。運悪く、残りの山の中にアガリ牌の二枚があった。
「杏らしくないな、跳満くらいで何ビビってんだよ」
「うるせえ、私はか弱き乙女なんだよ」
 はいはい、何を言ってるんだか、ということで会話も流れた。

 南一局。
 会話もなく、皆、黙々と牌を切っていく。これは皆、配牌が良いのだろう。残りの牌が半分くらいになったところで、山田がリーチをかけて奇妙なことを言い出した。
「僕、手品を使えるんだ。ここにいる誰かがアガリ牌を持ってたら一発で振るよ。疲れるからあまり使えないんだけどね」
「おっさん、そんな惑わし効かねえから。やってみろや」
 山田は目を瞑り、眉間に右手の中指を当てて念じ始めた。数秒経って、中指を天井に掲げて「真っ直ぐな少女《ストレイトガール》!」と決め台詞のように発した。
 場が一瞬、白けた空気になって静まり返った。
 見てはいけないものを見てしまった時に感じる、見ている方が恥ずかしくなるという感情の逆転現象。口を押さえて、視線を右にいる山田とは反対の方に向けた。
「おっさん。何だそれ? 何かの馬の名前?」
「いや、手品の名前なんだけど……」
「え!? 手品の名前!? だっさ! こんな恥ずかしい人にはぜってえ振らねえ。蓮、この人書いた小説、絶対に面白くなかっただろ?」
「正直言うと、面白くなかったかな」
 本気とも冗談とも付かないことを言い、蓮が爆笑している。蓮が笑うようなところではないように感じて、杏は違和感を覚えた。
 山田を横目で見ると、健人の目をチラチラ見ている。そういえば、山田は先ほどから健人の目ばかり見ている気がする。もしかして、ゲイなのかもしれない。彼の中性的な雰囲気を考えたら、それほど突拍子もない考えではないように思える。
「ほらよ!」
 健人が三ピンを投げやりに放り投げた。
「ロン!」
「え!?」
 思わず声を漏らしてしまったが、本当に一発で振った。しかも健人が切ったのはかなりの危険牌で、普段なら絶対に一発の時には捨てないような牌だ。
 山田のこめかみに汗が滲んでいるのは、本当に手品を使って疲れたからだろうか?
「マジかよ。今のはおっさんを試そうと思って切っただけだからな。そんなん手品でも何でもねえ」
「信じるも八卦、信じないも八卦、だよ。それにしても、真っ直ぐな少女《ストレイトガール》ってそんなに変かなあ? 良いじゃない。少女ってさ、ほら、素直でまだ汚れも知らないんだし」
 おい、おっさん、それは童貞じみた発想だ、女は幼い頃から陰湿だと杏は経験から十分知っているつもりだった。
 幼い頃から気が強かった杏は、小学から中学を卒業するまでずっとイジメに遭ってきた。
 所詮、私もマグノリアに拾われてきた汚い野良猫……。
 皆が太った私を「あんず餅」と言って馬鹿にしてくる。当時の不愉快な記憶が映像と音声を伴って襲ってくるため、頭からかき消そうと必死に別のことを考えた。
 そうか、山田のおっさんはゲイだから少女のことをよく分かっていないんだ、いや、ゲイだからこそ分かるのかもしれない? いや、ゲイだから分からないんだ、そういうことにしてしまえ。山田はゲイ、山田はゲイ、山田はゲイ……、このフレーズを頭の中で延々と繰り返すことで、フラッシュバックをやり過ごすことに無事成功した。

 南四局。
 一回目の半荘の南四局も終盤、このままなら健人が一位で終わる。
「おっさん、そういえば、行きたいって本当はどこに行きたかったんだ?」
「ああ、あれね、行きたいじゃなくて、生きたいって言ったんだ。人生を生きる方の生きたいね。こないだ医者から命が短いって言われちゃってさ、それでヤケクソになって競馬してたって訳。ははは。あ、いや、気にしなくていいよ、笑ってくれていいから」
 場が凍り付いた。
 おい、おっさん、今捨てたのロン出来るんだけど、そんなこと言われたらロン出来ねえじゃねえか、ふざけんな、と思うものの、こんなこと考えたら駄目だ、本人にとっては辛いんだ、と思い直した。
「おっさん、死ぬ時が来たな。それロンだ。タンピンイーペードラ。満貫だ」
 全く容赦のない健人からロンを食らった山田は今にも泣き出しそうである。
「何の病気なんだ?」
 山田は詳しく病状を説明し終えてから、こうして人といる時間が貴重なんだとベソを掻き始めた。
「何だそれ。いまだに発見されていない病気ってこと?」
「そうみたいだね。膵臓がんは別だけど」
「よし、蓮。おっさんに獣医を紹介してやれ。親戚にいたよな?」
「え? 何言ってるの? 獣医に分かる訳ないじゃん。無理だよ」
「動物では発見されてる病気かもしれないじゃん」
「確かに大腸の方は万が一があり得るけど、膵臓がんは発見されてるんだから無理だって」
「大腸の病気が原因で膵臓がんになったんなら、それさえ治れば膵臓がんも綺麗サッパリ治るかもしれないじゃん」
「そんなことがあったら奇跡だよ」
「そもそも進行の過程も常軌を逸してるんだから、奇跡も起きるかもしれねえじゃん。大丈夫だ。俺のせいにしていい。人間の医者が駄目なら獣医しか頼れるのいねえだろ」
 健人の発想はあまりにも人を馬鹿にしている。
 麻雀が終わったら寝て、明後日にでも出発するということで話が進んでいる。
 信じられない。
 一緒に来るかという馬鹿げた誘いには、約束があるといって断った。

 結局、麻雀は朝まで続き、健人と山田が勝って終わった。それもそのはずで、杏と蓮はリーチをなるべく避けて、山田からロンするのを極力避けたからである。
 山田は蓮の寝室に布団を敷いて眠ることになった。まだ空室は残っているのだが、一人は寂しいのだという。
 いつも通り、健人と一緒にダブルベッドに入った杏は彼の背中を軽く叩いた。
「私が生理だって知ってて挑発するのやめてよ」
 反応はない。
 その逞しい腰に腕を回すと寝息が聞こえてくる。その深い呼吸に杏もリズムを合わせることでリラックス出来る。そうでなければ、彼女は熟睡することが出来ない。

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