2-1 Punch-Drunk Love(蓮)

 山田を獣医に診てもらう日、早朝覚醒して再び寝付くことが出来なかった蓮は日が昇ってすぐに洗車を始めた。

 獣医の叔父にはすでに電話で頼んでおいた。
 叔父は外向的で面倒見が良く、そして何より、好奇心が強くて常識にとらわれない健人側の人間である。突拍子もない依頼に、一瞬、戸惑いながらも、興味深いから連れてきて欲しいと向こうから望んで引き受けてくれた。午前診療の日だから、午後からなら、という条件付きで。

 皆が眠っている間に本を読んでしまおうと思ったが、早朝覚醒のせいで今頃襲ってきた強い眠気に勝てそうもないので断念した。ベッドにうつ伏せになり、スマホで杏の画像を飽きもせずに見続けて時間を潰した。
 八時になって隣の寝室のドアが開く音が聞こえた。
 蓮も寝室を出て、廊下に出てきた杏に朝の挨拶をした。
「んー! おはよう。蓮、起きるの早くない?」
 伸びをするすっぴんの杏もまた可愛いなと思い、眠気の方も吹き飛んだ。
「早く起きちゃって。今日の朝ご飯、何?」
 朝食を作るのは杏である。
 誰が決めた訳でもないが、杏がマグノリアに正式に住むようになった初日、何か手伝えることは、ということで料理を作ってもらって以来、彼女の役割になっている。それまではレトルト食品やコンビニ弁当ばかりだったので、手料理を食べられるのは有り難かった。
「山田さん、何喜ぶかな、冷蔵庫見て適当に作っかあ」
 山田の体調は安定せず、麻雀をしている時は病人とは思えなかったが、寝て、夕方近くに起きると、頭痛がする、お腹と足が痛い、と不調を訴えた。病院から貰った痛み止めは自宅に置いてきたという。
 蓮はその薬品名を尋ねた。
 山田の口から出た名前の薬が市販薬と同一成分で出来ていることを知っていたので、常備されていないか探した。薬箱には見つからなかったが、杏が持っていそうだと思って聞くと、やはり持っていたので山田に渡してもらった。
 それでも効果は見られなかったが、夜になるとまた自然と元気になった。好不調の波が激しいのはいつものことらしい。

 今日はどうだろうと思い、また寝室に戻ると山田が目覚めていた。
「蓮君、おはよう。いやあ、今日は気分が良いよ」
 男性にしては高い、爽やかな声を聞いて、蓮は一安心した。
「おはようございます。杏が朝ご飯作ってくれてますよ。食べられそうですか?」
「杏ちゃんは気が利くねえ。勿論、食べたいよ」
「そうなんですよ、杏はああ見えて気が利くんですよ」
 朝食が出来たという声が聞こえたので、山田と食卓に行くと、オムライスにケチャップで皆の名前が平仮名で書いてある。感激した山田は、良い嫁さんになれると絶賛した。
「健人君は?」
「あいつは起こそうとするとキレるんですよ。三人で食べましょう」
 いただきますと言って一口食べた山田が、こんなに美味いオムライス食べたことがない! とまたもや絶賛した。杏も、でしょ? と満足げな表情で応える。
「杏ちゃんと健人君ってどういう関係? 付き合ってるんだよね?」
 返答に窮する質問をされて、蓮も杏も一瞬、スプーンを持つ手が止まった。
「ただの友だちです」
 ぶっきらぼうに答えた杏は、困惑と立腹と悲哀とが入り交じったような複雑な表情で、テレビの方を見たり、蓮の方を見たり、食事に戻ったりと、急に落ち着きがなくなった。
 聞いてはいけない質問だと察した様子の山田は、そうなんだ、とだけ言い、食事に戻った。
 実際、二人の関係は確かに何とも形容しがたいもので、一緒のベッドで寝て、体の関係もあるが、付き合っている訳ではない。世間ではセックスフレンドというのかもしれないが、その仲の良さはあまりにも軽いセフレという単語で片付けられるものではない。親友、が近い気もするが、おそらく世間では通用しない親友だろう。
 しかし女心というのは分からない。目の前の態度の真意も不明だし、もし、健人と付き合いたいのならば、他の男と会っていることも隠すはずだろう。

 朝食を終えて居間でテレビを観ていると、杏は男と会ってくると言って出ていった。健人は昼近くになってようやく起きてきて、オムライスを温めて食べ始めた。
「蓮、本読んだ?」
「ごめん、もう少し」
 もう目が冴えているから二階の「書斎」と呼んでいる本棚のある部屋で読み進めた。最終章の「腸内環境について」まで進んだところで、叔父の元に向かう時間になった。

 健人は助手席、山田は後部座席に乗り、蓮がアクセルを踏んだ。
「蓮君は恋人とかいないの?」
 山田は良い人だが、本当に空気が読めないところがある。麻雀の時も死ぬと言うから、こちらは気を遣い、リーチをなるべく避けてロン出来る時もスルーしたのだ。あの意味不明な手品で反応に困らせてきた時もそうだ。健人が空気を読んで振ってくれたから良いものの、彼がいなければどんな雰囲気になっていたかと思うと鳥肌が立った。
「ああ、蓮は駄目。女とまともに喋れないから」
「蓮君、可愛い顔してるし、ひとひら大に行ってたらモテそうなのに」

 確かに、蓮もひとひら大に入れば、彼女がすぐに出来て華やかなキャンパスライフを送れるものだと思い込んでいたのだが、現実は甘くなかった。ステータスよりもコミュニケーション能力が重視されるのは高校までと変わらないのだと思い知らされた。
 こんな自分でも合コンで知り合った木蓮学園の女性に好意を持たれたことがある。何度目かのデートの後、直接告白されて反応に困り、その返答が出来ないでいたら、帰宅後、程なくしてスマホに長文の告白メッセージが送られてきた。
「お前、こんなチャンスないぞ。付き合って早く童貞捨てろ」
 健人に見せるとそうアドバイスされたが、好みでもない女性にそれは出来ないと思い、断りのメッセージを送って関係は途絶えた。健人の言う通りにして付き合っておけば、今悩むことはなかったと少なからず後悔している。
 その告白の少し前に、杏がマグノリアに来たばかりに……。

 健人が杏を初めてマグノリアに連れてきた日のことを覚えている。
 雨の日で、丁度、玄関が開いて一本の傘が畳まれた時「傘差してても濡れちゃったね」とブリッ子のような声で言い、体を丸めて寒そうに震えている杏の顔が見えた。
 大きな瞳に印象的な厚い唇、赤く膨らんだ冷たそうな頬、分けた髪を艶やかに濡らして震えている小柄な杏は野良猫のようで、守ってあげたいという本能が揺り動かされた。
 完全に、一目惚れ。
 それも、とことん強烈な。
 モテない自分には時折あることだが、それでもここまで激しい一目惚れは今までになかった。
 あまりにも好意を持ちすぎて照れを隠すことが出来ず、当初は杏に冷たい態度で接していた。健人に「蓮、杏のこと気になってるんだろ? 杏、冷たい態度取られて悲しんでるぞ」と明かされて、勇気を出して優しくするようにした。
「杏さん、コーヒー飲みますか?」
 そう居間で聞いた時、あまりに唐突でぎこちなくて杏に笑われたのも、初めて彼女を笑顔にさせたという良い思い出だ。
 次第に本性を現して、男口調になった杏は凄く喋りやすくて惚れ直してしまった。
 それなのに杏は健人と同じ寝室でセックスをしていて、自分は壁越しの彼女のあえぎ声に聞き耳を立てながら自慰行為を繰り返している。
 そんな自分の情けなさにすっかり滅入ってしまい、心療内科に通うようになった。元から恋愛の失敗続きで不安定だったところに追い打ちをかけられた結果、ノックアウトを食らったという訳である。
 健人にも医者にも他の誰にも言っていないし、言える訳がない。
 今、杏への好意は隠し通せていると思う。
 それで良いんだ。

 メディカルモールの一角にある、おおみち動物病院に到着して中に入る。まだ受付の女性が残っていて、先生と約束していると声をかけると、待っていましたと言わんばかりに肯き、すぐに叔父を呼びに行った。
 待合室の三列三段ある椅子に三人並んで座って待っていると、寝癖を付けた叔父が現れた。
「蓮、待ってたぞ。待ちくたびれて眠っていたくらいだ」
 髭をたっぷりたくわえている図太い声の叔父は、この動物病院を二年前に開業した。会うのはその時以来だが、見た目は全く変わっていない。
「久しぶり。叔父さん、何かごめんね」
「逮捕されたら蓮も道連れになるだけだから気にするな」
 二人を紹介しようとしたら、健人が先んじて横から出てきて自己紹介をし始めた。
「初めまして。蓮の親友の川端健人です。よろしくお願いします。これ、名刺です」
「健人君、ね。探偵やってるのかい。密告はなしで頼むよ。蓮の叔父の大道|学《まなぶ》です。よろしく」
 どちらも自ら積極的に手を差し出して握手を交わしている。やはりこの二人は気が合いそうである。
 山田は座ったまま待合室の壁の掲示物に目を留めている。
「病気なのはこのおっさんです」
 山田は立ち上がって叔父に笑顔で会釈を送った。会釈を返した叔父が近づき、二人が握手を交わした。内視鏡検査の流れ、違法行為であることなどの説明を叔父がして、全て納得済みで来ていると山田が応じる。
「叔父さん、どのくらい時間かかりそう?」
「問診、検査で三十分くらい。その後、一時間ほど安静にしてもらうから全部で一時間半くらいだな」
 では早速、と言い、叔父が山田を診療室内に招き入れた。

 丁度、このメディカルモールには、蓮のかかりつけの心療内科がある。
「健人、ちょっと俺、すぐそこの心療内科行ってくる。予約してないけど、多分、診てもらえるから。ここかどっかで時間潰してて」
「オッケー」
 肘掛けを枕にして器用に横になった健人はスマホを弄くり始めた。後ろから覗くと、どうやら画像にして残した藤井遙の案件の契約書を読み返しているようだ。調査は全く進んでいないが、彼の高度な誤魔化しの技術でおそらく何とかなるのだろう。
 蓮は先ほど杏のことを想ったせいで憂うつに襲われていた。
 砂漠でオアシスを発見した時のように、すぐそこの心療内科に駆けつけて早く頓服薬を口にしたい。だが、薬なんて蜃気楼のようなもので、本当のオアシスは手には入らない人生なんだ。
 希死念慮。
 漠然と死を願う状態のこと。
 その状態になっていることを自覚していても、意識は「死にたい」というフレーズに乗っ取られる。それでも儚いことに、杏のことが意識の片隅から離れないのだ。

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