おおみち動物病院の玄関の扉を開けて、蓮は外へ出た。
外を、というよりも、世界そのものを、蓮の目が暗く捉える。憂うつの時、脳の錯覚なのかは分からないが、確かに世界そのものが暗くなったように見えるのだ。
好天で、かんかん照りの太陽は世界を明るく照らしているはずなのに、スマホで画像の照度に手直しを加えた時のように世界が数段階、暗く補正されている。補正された世界は、その終末が近いことを告げているかのように暗然としている。
蓮が通っている、さんようメンタルクリニック前の駐車場はがら空きである。蓮はその入口のドアを押して、受付の女性に事情を告げた。
「あの、予約してないんですけど、調子が悪くて来たんですが、これから診てもらうことって出来ますか?」
「はい。予約の方が優先となりますが、よろしいですか?」
「はい、もちろんです」
待合室を見ても、現在、待っているのは男性一人だけで、予約している人がこれ以上来ないよう願いながら椅子に腰掛けた。ここのリクライニングチェアはたまに眠ってしまうくらいに座り心地が良い。
周りを見渡すフリをして、蓮は受付の女性の横顔を見た。受付は二人在籍していて、そのどちらか一人が出勤しているのだが、どちらも容姿端麗で利発そうな顔立ちをしており、その横顔を見られるだけで待合室にいるのが苦でなくなる。
通い始めてからネットで検索して知ったのだが、ここは「あまりよろしくない」病院で、不調を訴えれば、簡単にうつ病の診断を下し、薬を出してくれるそうだ。診察時間も短くて、それに対しての不満も多く読んだが、診断書だけ欲しい、薬だけ出してくれれば良いという患者も多いらしい。
その分、回転率が高くなり、儲けているという噂を耳にする。おそらく、今、待ちが一人だけなのも、すでに午前診療の患者を捌ききったからだろう。噂に過ぎないにしても、通っている身として信憑性は高いと感じている。
結局、蓮の後には誰も来ず、待っていた男性が診察室に呼ばれた。
「大道さん、どうぞ」
数分で先ほどの患者が出てきて、蓮が呼ばれた。
診察室に入り「失礼します」と言う。
「どうぞどうぞ、お座りください」
初めて来た時には感心した全て、観葉植物やぬいぐるみなどのインテリアも、医者と目を合わさなくても済むようにやや斜めに対面する形で配置された椅子も、西内という精神科医の第一声にも、全て慣れた。
「大道さん、調子は如何ですか?」
「ちょっといきなり体調を崩してしまって……。頓服がなくなってしまって。それで来たんですよね」
「何か体調を崩すようなことがありましたか?」
「同居人がウチに一人連れてきたんですけど、その人が寂しいということで一緒の寝室に寝ることになったんです。人がいると眠れなくなって。それで昼間も体調崩してるんだと思います」
「ああ、睡眠が悪ければ昼間にも影響出るでしょうね」
「はい。なので、何か寝付きを良くする薬、増やしてもらえないですか? それと頓服もお願いしたいです」
「分かりました。では、この薬を……」
医者は薬のパンフレットを見せて、今までの薬と成分的にはほとんど同じ薬だと簡単に説明して、カルテに書き込み始めた。
蓮は嘘をついた。
寝付きは、山田が来る前も来た後も、寝る前に飲む抗うつ薬の副作用で眠くなるから問題ないのである。睡眠導入剤は、寝ないでそのまま起きていると気分が高揚して恍惚感を抱くので、健人と杏も欲しがっている。つまり、二人に分け与えるために量を増やしてもらう魂胆だった。
以前、杏が睡眠薬を飲んだ時、ハイテンションになり、蓮にキスしてきたことがある。それも、舌を絡ませるディープなものを何回も。蓮の方からも舌を絡ませる。一生忘れないと思うくらいの、杏の唇の柔らかな感触と、舌でのくすぐったくなる愛撫。マシュマロ……。
それが蓮のファーストキスだった。
翌日「昨日何したか覚えてる?」と杏に聞いても、全く覚えていないという。副作用に健忘があるから本当に忘れているのだろう。もちろん、何があったかは杏にも健人にも言っていない。以来、またそういうことにならないか期待しているが、それっきりである。
健人の方は「母さん母さん」とよく泣き出すので、杏が母の代わりになってよくあやしている。本人は翌日、全く覚えていないと言うが、その性格を考慮するとかなり怪しい。
人間の本性が垣間見える睡眠薬パーティーは、耐性がついては困るのでたまに行う程度に留めている。
「二週間分、で良いかな? 他に何か心配なこと、困っていることはありますか?」
「はい。他は大丈夫です」
「では、いいですよ」
診察はものの数分で終わり、会計を済ませて、隣にある薬局に向かった。
外の自販機でミネラルウォーターを買い、処方された頓服薬を多めに飲み込んだ。即効性のある薬で、駐車スペースの段差に腰を下ろして、景色を眺めながら効いてくるまで待つ。
その場から道路を挟んで見える住宅街のビルの数々が、通り過ぎていく車が、下校時間の小学生の列が、徐々に明るみを増して、終末の近い世界の時間が逆再生されていく。出来ることなら、小学生時代まで現実世界を逆再生して欲しいくらいだ。
希死念慮は意識から消え去った。
蓮は歩道を歩いている若い女性に目を向けた。
ごまんといる女性の中で、自分を受け入れてくれる人だってどこかにいるはずだ。
塞がれていた視野が切り開かれていくのを蓮は確かに感じている。
そろそろ時間だ。
山田さんはどうなっているだろう?

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