2-9 Brother’s keeper(健人)

 立ちこめていた暗雲は消え去り、外は一転して快晴となった。
 僅かばかりの白い帯状の雲が、青空をのんびりと流れている。
 太陽は丁度、本部入口付近に日陰を作り、健人は車をそこまで移動させた。その後、外でタバコを吸いながら蓮が戻ってくるのを待ち続ける。
 上機嫌の山田は車内で、スマホと車をコードで繋ぎ、お気に入りだという二人組アイドルユニット「Brother’s keeper」の『Calling on Mary』というポップな曲を車外まで響くほどの爆音で流している。耳が悪くなりそうだ。
 Brother’s keeperは「弟の番人」という意味で、旧約聖書『創世記』の兄弟・カインとアベルの話から来ている。
 その内容は、人類最初の殺人の加害者である兄のカインが、その被害者で弟のアベルの行方を神に問われた際「知りません。私は弟の番人でなければならないのでしょうか」と答えたというものである。
 そのカインとアベルを十代の女性が演じて歌っているのである。
 見た目は可愛らしいなと思うものの、曲調がポップすぎて健人はあまり聴く気にはならなかった。
 もう六本目のタバコを吸い終えている。
 七本目を半分ほど吸ったところで、ようやく、蓮が本部から出てきた。

「随分と遅いな。何喋ってたんだよ?」
「ああ、競馬の話」
 いつものポーカーフェイスでも隠しきれないくらい、嬉しそうな感情が蓮の顔から滲み出ている。惚れやすい蓮が沙羅に入れ込んで傷付かないか心配になった。
 蓮は調べ物をしたいというので、帰りも健人が運転することになった。
「おっさん、この煩い曲止めてくれ。聞いてられねえ」
 音楽を止めた山田は、皆もこの曲の魅力に気付くべきだと主張したが「俺には似合わねえ」の一言で突っぱねた。すると今度は、蓮にその魅力を熱心に語り始めて明らかに困らせている。
 こんなに元気でしつこい奴じゃないはずなのに何か洗脳でもされたのかと健人は怪しんだ。
「おっさん、何か変な薬盛られてないか? テンション高すぎるぞ。あと三上はどうやって治るって言ったんだ?」
「薬なんて盛られてないから大丈夫。何も口にしてないから。海の教団でも研究している病気らしいよ。割と進んでるらしいから治せる可能性があるんだって」
「人間の医者でも分からない病気が、宗教団体で分かるもんか? それにあいつ、怪しいぞ。教祖なのに地下鉄の運転士をしていて、あいつが運転してる時は超能力のおかげで人身事故が起きないんだとよ。おっさん、麻雀の時の手品、まさか本物の超能力なのか?」
 あの時、健人は自然と試してやろうという気になって、わざと危険牌を切っただけだ。少なくとも健人自身はそう信じているが、地下鉄に轢かれずに済んだのが三上の力のような気がしてならなかったので、その自信がなくなってきている。
「地下鉄の運転士? それはよく分からないけど、麻雀のは本当に単なる手品だよ。方法については企業秘密」
 全く納得いかないが、超能力というものが存在することも信じ難い。今のところは心にしまっておくことにして車の窓を開けた。車内に入ってくる風が、肌には適温でその刺激が心地良い。
「洗脳されなかったか?」
「されてないよ。どうしたの、健人君。あんなちょっとの時間で洗脳なんて出来る訳ないじゃない」
 確かにそれもそうだ。

 隣の蓮のスマホに目を遣ると、どうやら海の教団の公式サイトで沙羅の画像を見ている。
「蓮、お前、沙羅に惚れたのか? 俺の女になるんだから駄目だぞ」
「まさか。ちょっと喋っただけだよ? 海の教団の教義を調べるついでに見てみただけ。ねえ、なんで沙羅さんがメンヘラだと思ったの?」
「競馬場で会った時、個人的にどの馬が勝つか賭けたんだが、その時に『私が勝ったら私を守って。何かあったら救いに来て』とホザいてきた。それと目の奥に闇のようなものを感じた。それだけだが、十分すぎるほどメンヘラ臭漂ってる。メンヘラ・マグネットと呼ばれる俺の直感はすげえぞ」
 目の前でリストカットを始める女。
 包丁を持って刺し殺そうとしてくる女。
 一番困ったのが、今からビルの十階から飛び降りる。三十分以内に来て、来てくれたら飛び降りるのは止める、と言われた時だった。その時、蓮は車を使っていたし、深夜で地下鉄も利用出来ない、自転車でも間に合わない。現金ほぼ0でクレカもなかったのに仕方なくタクシーを利用して、その女をビルの外階段で抱きしめて何とか引き留めた。その後、来た分のタクシー代を要求したらまた揉めて、あれは本当に最悪だった。
 他の良い男を自然を装って紹介して、その女たちとは何とか距離を置くことに成功したが、メンヘラであることを隠して紹介された男たちが今頃どうなっているかと想像すると下衆な笑いがこみ上げてくる。
 散々な思い出が頭をよぎる中、健人は母のことを思い出した。
「蓮、そういえば、母さんの誕生日、もうすぐなんだわ。金、良い?」
「駄目って言ってもどうせ財布から取るんでしょ。嫌だけど良いよ」
「サンキュー! 蓮様! 探偵で生計立てられるようになったら返すからよ」
 高校卒業の時を最後に、母とは会っていない。
 そのことは蓮だけが知っている。杏も何かあるとは知っているが、詳しい事情までは知らない。
 単なる片思いみたいなもので、健人は毎年、母の日と誕生日にはプレゼントを贈り続けている。

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