あるまま駅で落ち合った男とのかりそめの情事が済んだ。
駅近くにある人気だという焼肉店に連れて行かれたが、換気設備もろくに改修していない老舗店で、そのせいで煙の臭いが服に染み着いてしまった。肉の味が格別だったのは認めるにしても、昼過ぎに若い女性と会うのにこれはない、せめて夜だろうと杏は憤った。
南に少しだけ進めば木蓮公園近くのラブホ街に辿り着く。
タクシーを使う男もいれば使わない男もいる。使ってくれれば嬉しいが、別に歩くのは苦でないから普通ならどちらでも構わない。だが、今回に限っては、次の約束の前にまた着替える羽目になって時間が足りなくなるからタクシーにしようと誘導した。
肝心のセックスは、乾いた手でクリトリスを強く擦ってくるものだからとにかく痛かった。そういう男はザラにいるから大して気にもしないが、着替える手間が出来たため、さっさと挿入させて終わらせた。
定期の約束を求められたが、曖昧に誤魔化してタクシーで帰宅した。
すぐに着替えて、斉藤誠と待ち合わせしているひとひら駅まで地下鉄で向かった。彼はひとひら駅に車で来るという。
待ち合わせの六時になり、スマホで出会い系の通知を確認する。ひとひら駅の北口に停まっている赤い車がそうだという。北口に出ると、赤々と目立つ高級スポーツカーが即座に目に付いた。近付くとよく分かるのだが、どう見ても新しい車だ。洗車しても古い車にここまでの光沢は出せない。
なるほど、こいつ、コールセンター勤務なのに随分と羽振りを利かせやがって。家に金入れないどころか、借金でも抱え始めたから離婚考えてるんじゃねえのか、奥さん。
車内の斉藤と目が合い、笑顔で会釈を交わした。
以前、見定めた時の斉藤の印象といえば、色白で青髭の目立つやや太めの中年、だったのに、今、髭も髪も伸ばして眼光炯々としたワイルドな大人の男性が車内にいる。そこまで雰囲気が一変していても同一人物なのは間違いない。
一瞬、嫌な予感がして助手席のドアを開けるのを躊躇するも、ここまで来て逃げる訳にはいかない。ドアを開いて顔を覗き込ませた。太っていた体には逞しい筋肉が付いて元の醜さを見事に斥けている。この短期間でここまで変わるものかと杏は驚いた。
「初めまして、あゆみです」
「初めまして、誠です。あゆみちゃん、写真で見るより断然可愛いね。ささ、座って」
横顔を間近で見ても、覚醒剤でも打っているのかと疑うくらいの眼光だ。目が合い、思わず杏は目を下に向けた。
「あ、今、目が合って照れたでしょ、絶対そうでしょ、絶対そうでしょ」
斉藤が人差し指を差して軽いノリでからかってくる。
「違いますう。でも誠さん、格好良いですね。奥さんが羨ましい」
「いや、妻とは上手くいっていないんだ。別れようかなーって。あゆみちゃんみたいな綺麗な子と結婚したいものだよ」
そう言って車を走らせた横顔が、少しどころか、かなり格好いいと杏は当惑した。先ほど目を下に向けたのも指摘されたように照れてしまったからである。この男となら一発ヤるのも望んだもんだ、良い案件に誘ってくれたもんだなと杏は健人に感謝した。
「これからどこ行くんですか?」
「ゴーラス海近くのラブホ街。問題ないよね?」
「はい!」
その声の弾み具合は、先ほどの男の前では一度も出なかったものだ。もう杏の方が見るからに乗り気で、がっついて斉藤に質問や褒め言葉の集中砲火を浴びせた。
車のこと、仕事での役職、着ているスーツが素敵なこと、顔が格好いいこと、会話がスマートなこと。また、ここまでの高級車を買えるのは副業で儲けているからだという。羽振りが良いのもそれで納得がいった。全て的確に答える斉藤に心酔して、もう仕事だということは完全にそっちのけである。画像を撮影せずに助けてあげようとさえ考え始めていた。性欲と物欲に目が眩んで興奮状態の杏は、会話の最中に何度もダッシュボードに唾を飛ばしては服や手で拭いて誤魔化している。
一点、斉藤が両手の中指に付けている指輪だけは随分と趣味が悪いなと思った。ヒダのように歪んだピンク色の楕円形をしていてその真ん中に宝石がはめ込まれている大きな指輪。その宝石は真ん中だけが黒くて周りが白い。ヴァギナに見えたが、流石にそんなことは指摘出来ない。
「着いたよ」
その頼りがいのある声に違和感がない西洋の格式高いお城風ホテルが怪しげなアイボリーで夜を照らしている。ひとひらのほとんどのラブホは制覇していたが、一度来てみたかったテレジアという高級ラブホテルである。
左折して立体駐車場に入る。
平日のまだ早めの時間だから車は少ない。この低い天井で斉藤との距離感がより詰まったように感じて、杏はこの手の出会いで珍しく緊張感を覚えた。エンジンが切られて音が消えると、余計に緊張感が増してくる。
斉藤の左手が杏の右手に重なり、彼は上体を捻って顔を寄せてきた。
温かい唇が重なる。
杏は目を瞑った。
「誠さん、まだ早いよ……」
「そう? もう俺、我慢出来ないけど」
自分の肉体が相手を欲情させていると思うと杏の下腹部も熱くなる。
斉藤と腕を組みながら、駐車場から地続きとなっているエントランスをくぐった。
入った瞬間、そこはもう異国のオーシャンで、波を打つカーペットがバージンロードのように長く続いている。その両端にはピンク色に光る円柱型の水槽が何本も立てられている。
これほどまでに用意周到な舞台を築き上げられて、しかも腕を組みながら歩いてるとなれば、もう杏は豪華絢爛な花嫁そのものの気分である。
「こんなの、ズルいよ。女の子だったら誰だって落ちちゃう。色んな他の子とも来てるんでしょ」
「来てる、って言ったらどうする?」
「別に来ててもいい」
杏は斉藤の腕にしがみつくようにして体を密着させた。
メニューパネルも完全なタッチパネル式で凹凸が全くなくスタイリッシュだ。最も高い料金設定の部屋を、斉藤が迷わずタップした。
「え、大丈夫なんですか?」
「ん? 安い部屋の方が良かった?」
「んーん、任せます」
これだけ自分に尽くしてくれる人を騙すなんて申し訳なくて出来ない。この人なら早く離婚して良い人を見つけた方が良い。そのためにも、画像が必要だ。でも……、画像を提供したらもう会えなくなるんだ……。そう思うと心に迷いが生じた。
斉藤がカードキーを部屋番号の下に挿入すると部屋のロックが開いた。
紅色の室内は、ゆったりと厚みのある天蓋とカーテン、その中にこしらえられたふかふかそうなクイーンベッド、幾つものシャンデリア、壁紙はお姫様お誂え向きの花柄模様で、一瞬、心躍ったが、急にこんなのは自分に似合っていないと自信がなくなってきた。
斉藤は杏の腕を引っ張って奥に入っていき、その体をベッドに押し倒した。そのまま、首にキスをしてくる。気持ち良いと思う以前に、体にまで焼肉の臭いが付いていないか冷や冷やした。
「ちょっと待ってください」
乗っかかる体重を杏は押しのけた。
「どうしたの?」
子どもを心配するように首を傾げて杏の返事を待っている。斉藤には子どもはいるのだろうか、その情報が未確認だった。
「お風呂……」
「あ、ごめんよ、興奮しちまって。先に入るかい?」
「誠さんから入ってください」
「分かった。待っててな、あゆみちゃん。本名は何て言うの?」
偽名だと見抜いているとは出会い系慣れしているなと杏は思った。
「あん、です。何か変な名前だから嘘ついちゃった」
あんず、の方が遙かに変だなと思いながら、嘘に嘘を重ねた。
「あんちゃん、全然変じゃない。良い名前じゃない、俺は好きだよ」
言い終えてバスルームの方を向いた斉藤を、仰向けに寝そべったままスマホのサイレントカメラで連写した。こちらに向き直っても、スマホを弄くっているフリをしながらその顔を、その上半身を画像に収めた。
撮影した画像を確認する。
背景の壁紙もソファもテーブルも、画像の色合いまで、どう見てもラブホ以外あり得ない。誰もが納得のいく証拠画像の完成だ。杏の手は、麻雀の際、山田にネイルを指摘された時以上に震えている。
「何? スマホ? 若い子はすぐスマホだもんな」
「誠さんだってまだまだ若いですよ。スマホ使ってるじゃないですか」
「そりゃ使うけど、頻度が、ね。じゃ、シャワー浴びてくるよ」
クソが。私としたことがこんなペテンなシチュエーションにしてやられるところだった。
シャワーの水流音がバスルームの方向から聞こえる。どうやら風呂を沸かして一緒に入りたがるタイプではないようだ。斉藤が無防備にも置いていった鞄の中をまさぐる。
財布が入っている。
自分は格好良いから盗まれないという自惚れたプライドが透けて見えたような気がして、先ほどまでの恋心のようなものが静かに去っていった。
やけに冷静さを取り戻している。
その中には、物凄い量の一万円札が入っている。厚みからして百万円くらいはあるだろう。昔、貯め込んだ万札を重ねてみたことがあるから、おおよそ合っているはずである。
これほどの大金を持ち歩いている理由は一体?
他に身分証明書などのカード類を物色する。以前の青髭の目立つ斉藤が写っている免許証を取り出すと、その後ろから長方形の紙切れがひとひら、ひらひらと舞い降りてきた。
足下に落ちたその紙切れをさする指の感覚が研ぎ澄まされる。
「あんちゃーん!」
胸骨共々心臓がはち切れるかと思うくらいビックリした。
「一緒に入らなーい?」
「えー、ごめんなさい。恥ずかしいから後にします」
「そっかー、分かったー!」
音に耳を澄ませると、どうやらまたバスルームのドアを閉めてシャワーを浴び続けているようだ。
もう一度目を向けたその紙切れに書いてある文字に、殺意に近いほどの怒りがこみ上げてきた。
二人の名前が上から順に書かれてある。
大道蓮。
藤井遙。
しかも蓮の名前の上から横線が赤い文字で引かれている。
斉藤が殺した? まさかそんなことが?
いや、探偵の件で目を付けられていると気づいた斉藤が蓮を殺したという可能性なら十分にあり得る話だ。
しかし藤井遙の名前の意味は?
分からない。
考えている暇はない。
杏はその財布と入っていた鞄を抱えて、足音を立てぬようにして自動精算機に向かった。「精算」をタップする。
「チェックアウトいたします。よろしいですか?」
流れてくる自動音声が歯痒くて堪らない。表示された金額を確認して、お釣りが出てくる時間すら惜しいから自分のクレジットカードで精算を済ませた。
「お支払いが完了しました」
自動音声が告げるとドアのロックが解除される音が響いた。随分と大きな音に聞こえる。
後ろを振り返る。
大丈夫だ、まだシャワーから出てくる時間のはずがない。
廊下の豪華なカーペットを、今度は盗人として杏は懸命に駆け出した。
ナメんじゃねーよ。女子百メートルハードルでひとひら三位の実力だ。何があっても逃げられるように、可愛い靴を諦めてわざわざスニーカーを履いているんだ。何かあった時のために、粉末状にした眠剤だって用意してある。まあ、あいつだって副業で儲けて高級車を買うくらいなら、百万円程度、良い勉強代になっただろう。
外に出ても追っ手が来ないことを十分に確認してから歩み出した杏は、自分のクレジットカードで支払いを済ませたことに気付いて地団駄を踏んだ。
クッソ、身バレしていないかと思いきや、訴えられたらクレジットカードから足が付く。ま、その時はその時だ。探偵の依頼で仕方なくやったでどうにか言い逃れをするしかない。ラブホの監視カメラに映っているんだろうし、訴えられたらどちらにせよ同じことだ。
それに百万円なんて私からしたらただのはした金だ。用が済んだら警察署前に金が入ったままの財布と鞄を捨てておけば、返すつもりがあったということで問題ない。
それより問題はあの紙切れだ。
蓮のこともさることながら、次は藤井遙が危ないのかもしれない。
撮影した斉藤の画像を見返してみる。
恋は盲目という奴だったのか、こんな男、どこも格好良くなんてない。

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