ひとひらが荒れている。
カーテンの閉められた寝室で毛布にくるまっている健人は、枕の上に置いたノートパソコンで馬券を賭けている。
外は雷が鳴り響くほどの大雨で、モニター越しからひとひら競馬場のダートもかなり渋っているのがよく分かる。思考抑制の著しい健人はただ逃げそうな馬だけを選んで適当に買っているが、そんな予想ではそう当たるはずもない。
これがうつ状態という奴か、蓮はこんな感じで苦しんでいたんだな、天気が悪いと気分も余計に落ち込むぜと、彼の気持ちが分かったような気がしていた。
同時に付けているローカルテレビのワイドショーでは、ここ最近、あまりに天気予報が当たらないからその視聴率が下がっていると笑っている。
確かに、今年に入ってからのひとひらは天気予報通りにならないことが多い。それどころか、正反対の天気になることさえ多い。今日も曇りのち晴れ、降水確率0%だと予報では告げていた。そういえば、夏が終わるのも例年よりかなり遅かった。
モニター越しのひとひら競馬場の雨が止んで晴れ間が覗いているように見える。ベッドから起き上がってカーテンを開けると、先ほどとは打って変わって青空が広がっている。こんな不安定な天気だと、何かの映画で観たように空からカエルが降ってくるかもしれない。
部屋のドアが二度ノックされた。山田がドア越しから声をかけてくる。
「健人くん、晴れたよ。どっか行かない?」
「えー、だりいからいいや」
「あんまり引きこもってたら余計に気分も落ち込むよ。前言ってたお母さんのプレゼント、買ったの?」
「あ! 忘れてた! ナイス、おっさん!」
大切なことを思い出して体に喝の入った健人は急いで身支度を済ませた。プレゼントは何にするかもう決めている。
杏は快く家賃を出してくれたし、斉藤にも会うと言っている。山田も海の教団に足繁く通うようになった。周囲が頑張っている中で、自分だけがへたっている訳にはいかない。
久しぶりの運転だと張り切って運転席に座った途端、前後の距離感が掴めなくなるような感覚に襲われた。自分の状態が悔しくて、健人は右手でハンドルを叩きつけた。
「おっさん、俺、無理だ。運転代わってくれ」
「大丈夫? 病院行ったほうがいいんじゃない?」
「メンヘラマグネットがメンヘラになるってか? 大丈夫だ、ずっと家にこもってパソコンばっか見てたからだろ」
健人は山田と運転席を交代した。
「どこ行くの?」
「今、ナビで検索する。花屋だ」
「花贈るんだ、お母さん、きっと喜ぶよ」
おそらく、母は喜ばないのではないかと健人は思った。
外は相変わらず晴れ続けている。かなり久しぶりに日の光を浴びたような気がして、せっかくなのでサングラスを取った。
蓮の言っていた、うつ状態だと世界が暗く見えるというのも何となく理解できた気がする。
山田の安全運転もたまには良い、たまにはゆっくり景色を眺めることも大切だ。
「なあ、おっさん。海の教団に秘密にしろって言われてるんだろ?」
「え? いや、そんな訳じゃないけど。まあ、近いかな」
「海の教団が蓮の死に絡んでるとしたら、どうする?」
「まさか、そんなことないよ。そんなことする理由がないじゃない。新興宗教だから悪いイメージ持ってるのかもしれないけど、皆、良い人たちばかりだよ」
駄目だ、完全に海の教団に肩入れしてやがる。このおっさん、まさか俺らのことまで裏切らないだろうなと、健人は心配になった。
フラワービショップという花屋があるのはひとひら郊外の四大津町《よんおおつちょう》で、ここを通る国道を走ってなみだばね町まで往復してきたのである。
国道沿いにその花屋が見えてきて、ナビが喋り出す前に山田に指示する。
「そこ駐車場だから左折してな」
「これ、お洒落な花屋だね」
外壁が蔦で張り巡らされており、辺り一面が緑葉植物のポットで広がっているフラワービショップは、ひとひらで一番大きな花屋だと調査済みである。
車を出て店内に入った。
花でぎゅうぎゅう詰めの印象がある花屋にしては歩くスペースが広く、植物だけでなく雑貨類も販売している。抑うつ状態のせいなのか、単に花なんて普段買わないからなのか、珍しく緊張している。健人は黄色い花の入ったポットを持っている女性店員に話しかけた。
「店員さん、バラとマグノリアってある?」
「バラはあるんですが、マグノリアは季節じゃないから置いてないんですよ、すみません」
カーキ色のエプロンを膨らませている大きな乳房が気になった。年齢は二十代後半くらいといったところで、顔も悪くない。
「そうか、じゃあ造花でもいい。造花はある?」
「おそらく、お取り寄せになるかと……。ちょっと確認してきますね」
レジ内に入った店員は何かの資料をめくって目を通している。健人は山田の隣に付けて小さく声をかけた。
「おい、おっさん、あの店員、すげえ巨乳だぞ。ありゃEかFはある」
「あれ、健人くん、元気出てきたんでないの?」
「そういや杏以外の女をしばらく見てなかった。エロ動画も見てねえし」
女の胸もそうだが、絶えず鼻孔をくすぐってくる花の芳烈な香りが生命力を蘇らせてくれている気がする。
店員は今度はどこかに電話を掛けているから、その間、豊穣な乳房を視姦し続けていた。ネームプレートには「中野」と書いてある。
電話を終えた中野はエプロンの膨らみを上下に揺らしながらこちらへ走ってきた。
「造花ならお取り寄せできるようです。通常、二、三日かかりますが、よろしいですか?」
「もちろん。なみだばね町にいる母に贈るんだ。バラとマグノリア、他、似合うのあれば付けてくれ。予算は一万円で、あとは店員さんが適当にアレンジしてくれればいい」
「分かりました。なみだばね町ならすぐ届きますね。完成したら連絡しますので、こちらの紙に記入お願いできますか?」
「オッケー」
記入している最中、また雨音と雷が鳴り始めた。今年の天気の変動はやはり異常気象だ。
「また雨降ってきやがった。何なんだろうな、店員さん」
「ほんと嫌ですよね。『災い訪れる前、ひとひらに落雷繰り返されるだろう』っていうの知ってます?」
「何それ? 怖いな」
「なみだばね町ってことはひとひらには引っ越して来られたんですか?」
「そう」
「ひとひらには不吉な言い伝えが沢山あるんですよ。ありすぎてよく分からないんですけど。ひとひらって海の街だから、海が荒れ狂ってもパニックを起こさないように、戒めの意味で広まった言い伝えらしいですよ」
「へー。沢山あるのか。じゃあ何でも適当に作れば良いじゃん。『落雷繰り返される時、ひとひらで中野さん、俺とデートするだろう』みたいな」
「あらやだ、結婚してるんですよ、私」
「なーんだ、がっかりだぜ」
単なる迷信だろうが、蓮の死や三上に救われた気がすること、山田に腕を掴まれたことなど、近頃は不可解なことが起こりすぎて本当にこれから災いが降りかかるような気が健人にはしていた。
連絡先の記入を終えて帰るとなっても雷は鳴り続けている。
元気が出たから自分で運転すると言い、健人は運転席に乗り込んだ。
山田はまたBrother’s keeperの曲をかけて聴いている。
小説のタイトルが『置き去りの少女』といい、手品の名前が「|真っ直ぐな少女《ストレイトガール》」といい、このおっさんはロリコンなんじゃないか?
今度、蓮と杏にバラしちゃおーっと。
あ、遙ちゃんに本なくしたこと連絡しないと。しっかし、面倒なことになったな。
視界の距離感も握っているハンドルの感触もそして思考回路も、今までの自分通りで問題ないと確認した健人は、流れている『Calling On Mary』に合わせて鼻歌を口ずさんだ。
一方、山田は一際大きな雷の轟音に怯えている。
車内は安全なのに何をビビっているんだかと先ほどまでの臆病風はどこへやら、大雨の中、蓮の死を乗り越えた健人はアクセルを更に一段階深く踏み込んだ。
それに応えて、蓮の自慢の車が勢い良く加速した。

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