マグノリア前の探偵事務所っぽくない丸文字の立て看板がなくなっている。
遙はチャイムを鳴らした。
以前と同じように杏の声がインターホンから聞こえた。以前と違うのは、待っていましたと歓迎されていることである。
ドアが開いて、この日も変わらず見とれるほど美しい杏が笑顔で出てきた。
「どうぞお入りください」
彼女の案内に従って遙は居間の方へお邪魔した。
奥側のソファに、足を組みながら背もたれに両腕を伸ばしているサングラス姿の健人がいる。ヤクザの親分のような近寄りがたいオーラを放っているかと思えば、サングラスを外して立ち上がって「ささ、こっち座って」と向かいに座るよう腰を低くして手招きしてきた。
遙はソファに腰掛けた。
健人が杏に何か目配せしている。
やはり健人を見ると生理的な欲求が燃えくすぶる。
本当に何なんだろう、この感覚は?
食べちゃいたくなるくらいの熱烈な恋?
「来てくれてありがとう。今日来てもらったのは、幾つか用があるからなんだけど、まず、謝らなければならないことがある」
「何ですか?」
「死んだ探偵仲間、俺の親友なんだが、借りてた本をどこかにやったまま死んじまった。探したんだけど見つからなくてな。つまり、なくしちまったって訳。もう手に入らない本なんだろ? すまねえ。これをまず謝りたかった」
「あ、そうだったんですね。健人さん、でも大丈夫ですよ、何かあったら困ると思ってコピーを全ページ取っておきましたから」
「マジで!? ナイス! 流石! そこまでしてくれてるとは思わなかったわ。遙ちゃん、俺より探偵に向いてるんじゃないの」
なくしたら絶対に駄目な本だと思っていただけなのに健人は度を越して褒めちぎってくる。この様子なら音を立てておならをしても絶賛してくれそうだ。目の前で褒められている現実よりも滑稽な想像の方で遙は笑った。
「杏、やっぱり遙ちゃんは凄いぞ。コピーまできちんと取っておいたんだと」
「良かったんじゃないの」
コーヒーを運んできた杏はそう答えてまたキッチンの方まで下がっていった。
遙はトートバッグの中からダブルクリップで留めてある『入口と出口の哲学』のコピーを取り出して、大事なことがあると健人に伝えた。
「亡くなった探偵さん、残念でしたね。その探偵さんから聞いてますか? 本のこの部分が何か変だってこと。他の部分は普通なんですが、ここだけが『だ・である調』で、内容が異常なんです」
「聞いてないな、どれ、見せてくれ」
コピーを受け取った健人が目を通している。
まさか話を聞いていないとは。
亡くなった探偵というのは、一体、どんな人物だったのだろう?
普通の感覚なら異常だと気付いて真っ先に報告するはずの内容だ。チームプレーとはいえ、分担作業で、逐一報告するような仕事ではないのだろうか?
読み終えた健人が血相を変えて大声で杏を呼んだ。
呼ばれた杏が洗い物を終わらせてから行くと言うと、今すぐ来いと健人が声を荒げた。
「ちょっと、これを読んでくれ」
コピーのダブルクリップを外した健人は、渦中のページを一番上にして杏に手渡した。彼女が黙読している最中、健人は神妙な面持ちで読み終わるのを待っている。
こんな真面目そうな表情も出来るんだと驚きながらも、このページが手がかりとなって何か判明したのかと期待が膨れ上がる。
読み終えた杏が幽霊でも目撃したかのような恐怖に怯えた表情をしている。
「これ……、山田さんのことじゃないの……?」
その声は警戒心を強めたように慎重に発せられた。
「だろ? これは何かあるぞ」
「山田さんがこれを読んで、何らかの理由で蓮を売った、とか?」
「いや、それはないだろ。それならあんな冷静でいられるような奴じゃない。しかし、この本もおっさんも怪しい。海の教団にやたらと肩入れしてるから俺たちの会話も筒抜けにされてるかもな、このことはおっさんには内緒だ。おっさんにはちょっと警戒しておいた方がいいぞ」
山田とは一体誰だろう? もしかして、もう病院に来なくなったという私と同じ病気の人のことだろうか?
「あの、何か分かったんですか? 山田って人は誰ですか?」
「ありがとう。まだ何も分かっていないけど、何か重要なことが分かるかもしれない。山田ってのはマグノリアで同居してるただの冴えないおっさん。遙ちゃんが興味持つような男じゃないよ」
「そうなんですか……」
「そう、もう一つ、重要なんだ。死んだ仲間と遙ちゃんの名前が書いてある紙が見つかった。見てくれ」
健人はひとひらの長方形の紙切れを手渡してきた。
「おおみち? だいどう?」
「おおみちだ」
「大道蓮」という名前に赤い横線が引いてあり、その下に「藤井遙」と書かれてある。
「大道蓮って人が死んだっていう探偵さんですか? 私の名前が下に書いてあるってのは……」
自分で聞いていて恐ろしくなってきたのでここで言葉を止めた。健人の返事を待っているが、変な間ができて血の気が引いてきた。
「そう、蓮は殺されたんじゃないかと思ってる。そして、その下に遙ちゃんの名前が書いてあるってことは、今度は遙ちゃんが狙われている可能性が高い」
薄々感づいていたことを健人が淡々と説明してくる。
病死なら何の悔いもないが、殺されるなんて不本意な死に方だけは絶対に嫌だ。パニックになってきて何から聞いたら良いのかよく分からない。
「け、警察は!? 警察呼びましょう!」
「実は事情が少々複雑でね、俺が不倫調査の依頼を受けて、そのターゲットと杏が接触を取ったんだ。で、そのターゲットがこの紙を持ってた。杏はこの紙が入っていた財布と鞄も盗んで逃げてきた。しかも、財布の中には百万円も入ってた。ターゲットが何でこの紙を持っていたかは分からない。とにかく、盗んできたものだから、杏も逮捕される可能性がある。だから警察には言えない」
「健人、ちょっと待ってくれ」
立って話を聞いていた杏が手の平を健人に向けて言った。
「何だ? 不服か?」
「不服だ。私は探偵の仕事の一貫として拝借しただけで、その紙切れ以外全部返せばいいと言ってる。なのに、百万円に目がくらんだお前がネコババしようとしている。しかも依頼人には別の探偵に協力してもらって証拠写真を得たことにしてその報酬も得ようとしている。だから警察に言えない。これが真相だろ?」
「いや、違うな。返しても杏は逮捕されるぞ。杏は探偵として届け出ていないし、盗むのは越権行為だ。そもそも必要なのは写真だけなんだからな。それなら、遙ちゃんの調査のために有意義に百万円を使ったほうがいい。これが俺の考えだ」
「はあ? 呆れた。遙ちゃんが殺されても良いのかよ。遙ちゃん、この人のこと信頼したらダメですよ」
殺気立った声や表情で冷静な口論を装っているものだから逆にその恐ろしさは倍増している。特に杏は自分にずっと優しかった分、いきなり露わにした怒気に萎縮してしまい、話を振られてもただ頷くことしか出来なかった。
「殺されていい訳ないだろ。良い考えがある。遙ちゃん、安全が確認出来るまでマグノリアで暮らせ。家近いから大丈夫だろ? ここ、何でもあるぜ。部屋も余ってるし」
「え!? でも、私、お父さんが……」
健人は「沙羅みたいなこと言うなあ」と独り言を漏らして頭を掻き始めた。
「杏、お前、遙ちゃんの友だちだってことにして、お父さん説得してこい。仲良い友達のところに泊まるってなれば、別に問題ないだろ。遙ちゃん、問題ないよな?」
「え? ああ、まあ、大丈夫かと思います」
その勢いに負けて、どのくらい滞在するのかも不明なのに承諾してしまった。
「何でまた私がやるんだよ。本当にふざけんなよな」
不満をこぼしている杏の気持ちも尤もだが、翻って考えるとこんな派手な友だちがいると父が知ったら「遙が不良になった」と悲しみそうで気掛かりである。
「あの……、私にこんな綺麗な友だちいるって知ったらお父さん、怪しむと思うんです」
「ああ、そうだな、確かに遙ちゃんの可愛さとは似ても似つかないな。杏、すっぴんで遙ちゃんのお父さんに会いに行けよ」
「薄化粧で行きますから。大丈夫、私、演技上手いから遙ちゃん、安心して」
何だかんだ諦めて健人の言う通りにする杏が、私と詩織の関係みたいでちょっと可笑しかった。
これで決定、ということで遙は手を付けていなかったコーヒーをようやく飲んだ。
ぬるいのに美味しい。
どれだけ良い豆を使っているんだろうかと遙は気になった。
健人さんといれば不思議と元気が出るからマグノリア滞在も良いのかもしれない。今度、詩織も連れてこよう。きっと、豪勢な内装に驚くに違いない。
それにしても、私は平和に過ごしたいのに、どうして人というのは争いが絶えないのだろう?
本物の魔法使いになった私が「世界平和《ピースオブワールド》」という魔法で世界を平和を導くのだ。
遙はその夢想を変幻自在に飛び回らせた。
それはやがて飛び疲れて海へと深く沈んでいく。

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