海の教団と出会うまでは塞いだ気分だった山田も、今では生暖かい風を軽快に切りながら蓮の形見をすっ飛ばしている。
その豊かな感受性が、またもや訪れた夏の空気を、夏には似つかわしくない枯れ葉のさえずりを、その朽ちた色合いを、まだまだ残っている緑色の植物の香りを、そしてその他諸々の刺激をも忽ちに捉えて、彼のファンタジーの世界へ昇華していく。
海の教団の治療薬のおかげで山田の調子は確実に上向いている。どこにも痛みがなければ、感性が鈍ることもない。
今日はついに根本的治療の話を聞かせてもらえる日だ。
もう海の教団に入信してしまっても良いくらい、山田は彼らを信じ切っていた。
信者たちは未信者の山田にも親切で、押しつけがましいところも勧誘してくるようなところも一切ない。
その教えも一度理解すれば簡素なものだ。
海から預かっている各人の小さな意志を大切に扱うことが大事なのだが、それは単に健康に気を付けるだけであり、大袈裟にも修行と呼ばれる。
その中心にあるのが腸内環境である。
健康に気を付けることが出来ない人にも優しい。そもそも健康に留意出来ないからこそ海の教団に頼る人が多いのである。
一言でいえば、ユルい宗教なのだ。
大海の前では皆が無力だからコミュニティを非常に大事にする。そこでは未信者も信者も問われない。漁師の妻の信者率が割合高いが、無事、夫が漁から帰還した時、こんなに船が安全な時代にもかかわらず、皆で喜びを分かち合うのである。
共同体喪失の時代にここまで人と人が温かく繋がるコミュニティはなかなかないだろう。マグノリアなんてただのお遊びだと思うほどに山田はその素晴らしさを噛みしめていた。
教団の機能を成り立たせている教祖・三上の人格も特筆すべきものだ。
偉ぶったところが全くなく、どんな信者や教団関係者にも平等に接している。
彼とは意外にも話が合った。
お互い、現在、四十二歳の同学年だと分かって当時の話で盛り上がることが出来たのである。
情報を小出しにしてくる勿体ぶりが鼻につくこともあるが、山田の「真っ直ぐな少女《ストレイトガール》」が神の力だということも詳しく教えてくれた。どのような神の力を使えるかは使い手の性格によって大きく変わる。もちろん、性格というものは複雑に絡み合って出来ているものだから、神の力もまた複合的な性質を持つ。
三上もまた、神の力の使い手、海の教団の用語で「大海者」なのだという。
山田は三上との会話を思い出した。
「山田さんの神の力は、おそらく、人の意志を正直で素直な方向に導く能力でしょう。『真っ直ぐな少女《ストレイトガール》』、ぴったりな名前だ。名前を付けるのは良い。昔、漫画を読んでいた頃を思い出すよ。それなら私は『大胆な支配者《ボールドルーラー》』とでもなるかな」
「人を正直で素直に……。なるほど……。麻雀でも皆一発で振るのはそれなんですね。『大胆な支配者《ボールドルーラー》』とはどのような能力ですか?」
「厳めしい名前だが、大したことができるわけじゃない。海の大いなる意志に比べれば」
三上がどういう神の力を使えるのか、また、能力を使えて命は危なくないのか気になったが、彼はそこで話題を逸らしてしまった。「大胆な支配者《ボールドルーラー》」とは物凄い能力を想像させるネーミングだが、教祖として教団をまとめ上げてきた人だから単にそうした能力を格好付けて名付けただけかもしれない。その後、小説の話題になって煽てられたから忘れていたが、妙に気になった。
「そういえば、山田さん、あなたの小説を数冊読みましたが、やはり歴史的大作を書き上げるべき人間だ。海の意志はそのためにあなたを生かそうと思ったのでしょう」
こんな持ち上げられ方をしては、素直な自分としては真に受けるしかなかった。元々、褒められることでやる気を出すタイプだから三上の言葉には感謝をしている。小説は基本的には一人で書き上げるものだが、編集者の助けも必要だ。今、付いている編集者とはそりが合わない。
僕の唯一の恋人にして最大の編集者であった叶向さん……。
「ねえ、机ばっか向かってないで、どっか行こうよ。気分転換になって、そのほうが執筆も捗るよ。リラックスしている時にこそ、アイデアは浮かぶっていうじゃない」
締め切りが迫っているというのに一向に筆が進まなくて苛々している山田の背中を、猫じゃらしでくすぐりながら叶向が明るく言った。振り返った山田は叶向を睨みつけてペンを握っている手で猫じゃらしをはねのけた。
「いたっ!」
ペン先がその右手を突き刺した嫌な感触がして叶向は右手を腹部に寄せて左手で庇っている。
「あ、ごめん、叶向さん大丈夫!?」
「大丈夫。大して痛くない。ねえ、弘君、大事なのは分かるけど、考え込みすぎると余計にせっぱ詰まるよ?」
左手の指の隙間から右手が出血しているのが見えた。しかし、それを心配できるほどの心の余裕がなかった。
「分かってる! 分かるけど、じゃあどうしたら良いんだよ!」
パンク寸前の頭をくしゃくしゃに掻き散らしながら山田は金切り声を上げた。
そんな山田の目を、叶向は押し黙ったまま延々と見つめ続けている。放っておけば永遠に続くかと思うようなその眼差しは、人が感情的になった時、叶向がよくする癖である。そうしていると目の前の出来事から一歩退いてメタ次元で冷静に状況を観察出来るのだという。
「何だよ、その目は! やめてくれよ!」
その癖を人前で出すのは失礼だからやめた方が良いと説得してきた本人の前で、そうしてくるなんて逆撫でしているようにしか思えない。
山田は叶向の左頬を強く平手打ちした。叶向の顔はバチンと右に弾け飛んでから定位置に収まったが、それでも山田の目を見続けている。
続けて、右の頬を先ほどよりも強く平手打ちした。それなのに先ほどと全く変わっていない目の前の光景に山田は涙をこぼして目を拭った。
「気が済んだ? 私は大丈夫。ねえ、弘君、海行こう? ラピスラズリビーチ。付き合って初めの頃、デートしたね? 夜だとまた違って見えるよ」
もう見つめ続けるのをやめた叶向は、まるで子どもをあやすかのように言った。その後、無言で絆創膏を取りに行って指にくるんでいる。
「ごめん。じゃあ海、行こうか」
「やった。うん、行こう」
叶向は小学から高校まで同じの同級生だった。
小学の頃から本ばかり読んで寡黙だった山田が周りにからかわれているのを助けてくれる女子で、同級生というよりかは先輩のような存在だった。
高校生の時、密かに小説を書いていることを勇気を振り絞って叶向に打ち明けた。それから毎日、読ませてほしいとせがんでくるようになった。恥ずかしくてずっと断り続けていたが、高校卒業の時、就職活動に失敗して進路も決まっていない山田は、本当はずっと読んでほしかった、才能があると思ったら僕と交際してほしい、と原稿を渡して告白した。叶向はその告白に呆気に取られた様子だった。
お互い家は近いので、後日、その中心付近にある公園に呼び出されて、読み終えた感想を伝えてきた。
「才能はないなあ。でも、努力と編集次第で良くなる」
叶向は赤ペンで添削した原稿を返してきた。
フラれたと思い、落ち込み、泣きながらビッシリと添削された原稿を読んでいると、最後に赤ペンで「合格。私こそ付き合ってください」と書かれてあって文字通りベッドから飛び上がった。
国語の成績はいつも三で他の教科も軒並み低いレベルで推移してきた就活にも失敗した情けない自分が、大半の教科が五だと噂の美少女、しかも大企業の古谷鉄道に就職を決めた叶向と付き合えるなんて、正直、周りが聞いても誰も信じなかっただろう。
山田は短時間のコンビニバイト、叶向は大企業・古谷鉄道の正社員として交際はスタートした。家が近いにしても、叶向は残業が多いのに山田の家に足繁く通い、書いた文章を添削してくれた。
ラピスラズリビーチはデートの定番スポットだが、地下鉄を使うと古谷鉄道関係者に見られそうで恥ずかしいというので、山田が車の免許を取ってから親の車を借りてようやく行った。
付き合って三ヶ月経った頃である。
付くべきところに肉が付いている叶向の紫のビキニ姿を今でも忘れることが出来ない。山田が「少女」や「ガール」という単語を至るところで使うのは、当時の叶向が美少女と呼ばれていたからである。
交際していても身体的接触がないままだったが、ラピスラズリビーチの海の中に潜って抱き合ってキスをした。ファーストキスはしょっぱい味だと二人で笑い合ったのが思い出だ。
その後、応募した小説の新人賞の最優秀賞を受賞して、ようやく山田も職業を堂々と公言できるようになった。若年の受賞者ということで話題にもなって、そこそこの部数が売れた。二作目も、今後も小説家を続けていけるというくらいには売れた。
全て、叶向という最良の編集者がいたおかげである。
だのに、若い山田は自分の実力だと勘違いしていた。それどころか、未だに添削してくる叶向が邪魔だとさえ思うようになっていた。
地下鉄の終電もないこんな真夜中、しかも夏はもう終わっているのに海に誘ってくる叶向の意図は分からなかったが、行かなければ申し訳ない。
だが、ゴーラス海まで運転している最中も締め切りのことで気もそぞろだった。
叶向は出会った時のことや付き合い始めた時のことを細かいエピソードを交えて喋ってくる。
もしかして、別れたがっているのだろうか?
いつもの明るい叶向のようにも映ったが、一度、疑念を差し挟んでしまっては、どうしてもそういう目で見てしまう。
ラピスラズリビーチの駐車場に着くと、叶向は靴を脱いで裸足になり、海岸まで駆け出した。その後ろを、靴を履いたままの山田が嫌々走って追いつこうとする。こんな季節外れの真夜中でも、走ることで体が温まってくる。
海沿いまで着くと振り返った叶向が走って抱きついてきて、そのまま二人で後ろに倒れ込んだ。さも愛おしいように顔中に何度もキスを繰り返してくる。
「ねえ、弘君、もう私のこと要らない?」
そんなことを聞いてくる叶向に驚きつつも、とくと考えてから山田は素直に答えた。
「……分からない。いなくても小説はもう書けるよ」
「そっか、じゃあ要らないんだ」
やはり別れたがっているのだろうか、こちらから別れるよう仕向けているのではないかと訝しんだが、そんな遠回しなことをする女性ではない。
「いや、そういう訳じゃないけど……」
「ふーん、弘君は優しいもんね」
叶向はまた山田の目を永遠の眼差しで見つめ続けた。観察されて何もかも見透かされるのが不安で、やめてくれ、と乗っかっている叶向を突き除けた。
ゴーラス海の方を向いた叶向は体育座りをしながらこうべを垂れている。
中学生の頃まで自分より背の高かった叶向。
高校になって身長では瞬く間に追い抜いたが、いつまでも大きな存在だった叶向。
ずっと名字で呼んでいたため、付き合い始めてから呼び方に困って「さん」付けにしてしまった叶向。
そんな彼女の丸まった背中が、すっかり年老いた老婆のもののように映じている。
「叶向、僕、トイレ行ってくる」
「うん」
その醜く映る背中を蔑みの目で見下した山田はトイレではなくて駐車場へ向かった。
どうしてこんな考えが浮かんだのか分からない。
叶向を置き去りにしなければならないという突拍子もない考えが、天啓に打たれたかのように山田の脳裏をよぎったのだ。
車のキーを回す手はやけに冷静で、叶向が死ぬかもしれないなんてことはこれっぽっちも考えていなかった。助手席には叶向の靴が置きっぱなしだが、車は容赦なく山田の家の方までその車輪を回転させている。
帰宅して数日しても叶向からの連絡はなく、山田の方からも接触を図ることはなかった。むしろ、山田は気まずくなって都会へ引っ越すことにした。
関係は幕を閉じたのだ。
叶向との恋愛を描いたのが『置き去りの少女』である。この作品は山田の小説の中で最も売れた。
彼女は読んで、どう思ったのだろう?
この作品を最後に小説の売れ行きは悪化の一途を辿った。
また、山田は叶向との恋愛を最後に、女性と交際していない。出来なくなったのである。代償は支払わなければならない。
海の教団へ向かっている車輪は、叶向を置き去りにした時と同じように何の狂いもなく順調に回転しているのだ。
車の窓を閉じた山田はそう感じていた。

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