3-11 Mystical experience(三上)

 教団教祖室の書棚は扉になっており、本で隠された部分に指紋認証式の鍵が備え付けられている。その奥にある打ち放しコンクリートの秘密の部屋には重要な資料が集められており、その存在は沙羅でさえも知らない。
 その隠し部屋で、三上は二冊の『入口と出口の哲学』を久しぶりに読み比べていた。
 一冊は藤井叶向が書いたもので、もう一冊は、昔、三上が古書店で購入したものである。後者は、昔いたقوة اللهの使い手によって書かれたものだ。
 科学が進歩して出版物も増えた現代で、こんな古びたオカルト本が残っていたのは奇跡的だったなと三上は思った。

 叶向が自費出版した理由は、先代のものを上書きして葬り去り、自分の『入口と出口の哲学』こそを本物にしたかったのだろう。先代のものには使い手の治療方法についてしかと書かれてあるのに、叶向は治療法はないと書いた。قوة اللهを呪われた能力として絶滅させようとしていたのだろうが、そこには葛藤が伺える。
 娘がقوة اللهの使い手だった場合を考えたのか、治療法を仄めかしている箇所があるのだ。
「食欲を沸かせる眼球を丸ごと食べることで腸内環境が改善するのです。ただし、欲を満たすために決して残酷なことをしてはいけません。与えられた時のみ召し上がることが出来るのです」
 漠然としている箇所である。
 普通なら、動物や魚類等の目を丸ごと食べるのが腸内環境に良いが、そのために残酷なことをしてはいけないのだというくらいにしか読みとれないだろう。しかし、قوة اللهの使い手ならば、選ばれし神の眼球の持ち主に食欲が沸くのだから深読みすることが出来る。それを期待したのだろうが、そうなると、今度は娘が殺人を犯すのではないかという懸念を払拭できなくて警告を発しているのだろう。
 最後の悪足掻きとでもいうのか、随分と手の込んだことをしたものだ。
 しかし、山田がقوة اللهの種を食べたとは思わなかった。
 叶向にだけ食べさせたものだが、美味しいと言うので家に持ち帰らせた。まさかあんな情けない男が叶向の恋人で、種を食していたとは。あんな弱者に置き去りにされて、叶向もさぞ悔しかったろうに。
 それにしても、神の声を変な外国語にしか聞こえなかったとは道理で自覚もないわけだ。私も叶向も明瞭に聞き取ることが出来て、それを未だに一字一句違わず覚えていてビデオのように再生出来るにもかかわらず、と三上はその声を追懐した。

 我々は、人間たちによって初めの生命とされている「細菌・古細菌(アーキア)」以前の原初の存在である。偶発的に生命として誕生した。
 彼らに似て極めて微小な存在ではあるが、我々は、彼らが持たない超越的な力を持っていた。人間たちが作り出した神々「デイー(deī )」のように超越的な能力を。
 海には特定の方向性を持たない波という意志があり、それに従って生物たちは生きている。人間が自由に生きている等というのは、大きな勘違いであり、傲慢である。
 しかし、唯一我々だけはその波を動かすことが出来るのである。

 太古、雲が雨を降らせ、この世界に海ができた。
 同時に、海の内部で意志が生み出された。
 月の引力が引き起こした潮の満ち干によって酸素ができた時に、嫌気性である我々は生命としては滅んだ。
 光合成を行うシアノバクテリアたちが現れて、酸素の大量発生が起きた時にも「細菌・古細菌(アーキア)」たちは、共存や合体を行うことで上手く生き延びた。
 彼らは生命に固執した。
 我々は固執しなかったのである。

 真核生物、多細胞生物の時代へと移り変わり、最初の人類が生まれた時、私たちは生命として蘇ることの出来る環境があることを発見した。
 人類の大腸内である。
 我々が住んでいた環境とは違うが、大腸内は当時と同じく酸素のない暗黒世界。
 また、人間たちは各々が意志を預かっているが、深層心理ではその解放を望んでいる。お前たちが悟りの境地と呼んでいるものに達したがっている。
 人間にだけ海から頑なな意志が預けられてしまった故に、お前たちは苦しむ。我々はいわば意志の解放者として、人間たちが欲した存在と言えるだろう。そのため、お互いの利益が合致して共生関係を築くことが出来たのである。
 人間が特殊な条件下で死んだ時、我々はその死骸の腸内で偶発的に生命として蘇る。そのまま死骸が埋葬されてしまえば我々は再び死ぬが、その肉を人間が食した時、我々はその腸内に住み着く。
 そうだ、お前に住み着いているのだ。
 そこで我々は戯れて増殖と減少を繰り返す。他の腸内細菌たちが腸管に指令を送り、腸管がホルモンを通して脳に指令を送るように、我々もそうする。
 その我々の指令によって、人間は意志の波を動かす能力を発揮する。
 今までに、神と崇められてきた人間や偉人たちの中には、この能力者が複数いた。
 初めの能力者はアラビア語の使い手で「قوة الله」とこれを呼んだ。日本語では「神の力」という意味になる。
 お前にもقوة اللهが与えられた。我々は腸内で増殖と減少を繰り返して、やがて、お前の腸を支配し、破壊するだろう。
 これは我々の避けられぬ宿命。
 その時まで、これをよく愛し、敬い、倹約し、そして、海の求めに従って使え。
 最期の時には、不安に陥らず、全ての存在が母なる海に帰るということを決して忘れるな。

 その後、今までの腸内環境の研究成果に加えて神の声を聞いたのだという事実を利用して海の教団を設立した。教団が神と呼んでいるのは、現代科学によって初めの生命とされている細菌と古細菌以前から存在していた原初の生命である。
 私に残された時間は少ない。
 急がねばならないが、私は何よりマグノリアの連中の絆が羨ましい。木っ端微塵に砕いてしまいたい。
 蓮の遺体を発見されるように殺したのは、その結束力の一端を担う彼の死を健人と杏に見せつけて悲しませるためだ。山田に私を頼るよう伝えたのも健人と杏を裏切ることを期待してのことだ。さて、健人よ、叶向の娘を果たしていつまで守っていられるかな?
 防音対策がなされた隠し部屋で、自分の数奇な運命に興奮が最高潮に達した三上は、薬を飲んでいても痛む体を大きく伸ばして大声で叫んだ。
 私はお前たちの絆が羨ましくて堪らない! お前たちには愛のはけ口がある! 妨害してそのはけ口を破壊してしまいたい! 私はお前たちの愛を試しているのだ!
 ひとひらの意志は私に味方して、川端健人よ、お前を発見させたのだ!
 餌よ、お前さえ失えば残された三人はすぐにバラバラになるだろう。所詮、その程度の絆に過ぎないのだろう……。

目次へ