二十歳の頃、ひとひら大学近くにある黒魔術などの胡散な書物を扱っている古書店で、三上は『入口と出口の哲学』を発見した。その本には、قوة اللهという神の力が存在して脈々と受け継がれてきたこと、قوة اللهを得るためには人間の大腸を適温下に置いて熟成させた発酵食を食べる必要があること、その作業を著者は冬の神林樹海で行ったということ、食べた者は大腸を破壊されて寿命が短くなること、قوة اللهを保持したまま治るためには「神の眼球」と呼ばれる人間の片眼を丸ごと食べなければならないこと、その眼球のガラス体は分解されずに腸まで届くコラーゲンで出来ていること、そして原初の細菌の餌となりマジカルな化学反応を起こして寿命を全う出来るようになることなどが書かれていた。
三上は本に書いてある通りに人の大腸を発酵して食べてみたいという欲求から、毎夜のように自殺の名所・神林樹海に赴いて自殺者を探す日々を送っていた。
教祖室のマッサージチェアに座ってその気持ちよさで眠ってしまいそうな三上は、当時のことを回想していた。
枯れ葉を踏み分けながら進む、人のものらしき足音が近づいてくる。
三上は存在が見つからないように匍匐《ほふく》した。
暗くてはっきりとは分からないが、どうやら木の下に踏み台を置き、鞄からロープを取り出しているようだ。
自殺志願者の男で間違いない。
ロープを木に括り終えて踏み台の場所を確認しても、男は落ち着かない様子で周囲を見回している。躊躇しているのだろう。
踏み台に両足を乗せても、降りたり乗ったりを何度も繰り返している。
勿体ぶらずに早く覚悟を決めろと、三上はもどかしくて溜まらなかった。
男の嗚咽がせきあげてくる。このままでは諦めて帰るかもしれない。
そう思った瞬間、男は意を決したようにロープを首に括り、踏み台から脚を外した。ロープと木がゆっくりと軋む音だけが何度も繰り返し響き渡っている。肉体は動かなくなり、ただ、その体重で前後にブランブランと揺れ動いているだけである。
よし、あとは筋肉が弛緩するのを待ち、大便を全て垂れ流してもらい、解体作業に入るだけだと三上は興奮を抑えきれない様子で思った。
残りの手順を頭の中で整理する。
まず、大腸を取り出し、腹を裂いて内蔵を取り出す。
続いて、その中に大腸と綿をぎゅうぎゅうに入れてから腹を縫い合わせる。
その後、地中に埋めて、動物に食べられないように石を置く。
最後に、数ヶ月放置・熟成して取り出せば、完成である。
キビヤックというウミスズメを発酵させた食品の製造過程とそっくりだ。
この血みどろになる作業を日が昇る前に終わらせなければならない。
三上はハンターが利用するナイフを使い、吐き気を催す惨たらしい作業を淡々と進めた。
無事、全ての工程を日の出前に終わらせ、持ってきた服に着替えて手袋を付けた三上は、顔にも血が付着していないか気になった。場所が分からなくなるのを防ぐために梱包用のビニール紐を木に巻き、それを目印にして車まで戻った。そのバックミラーで顔を確認しても、血は付着していない。これなら問題ないと思った三上は車で自宅に帰宅した。
その後も古谷鉄道で何事もなかったかのように勤務し続け、夜には神林樹海に異変が起きていないか確認のために通う日々を送った。
三ヶ月が経過した頃、遺体を掘り出す作業を行った。
腹部から取り出した大腸の発酵物はどぎつい臭気を漂わせている。食べるには抵抗があったが、仕上がりとしては本に書いてある通りで成功しているはずだ。細かく切り刻み、冷蔵保存して、قوة اللهの種の完成である。
自分に危害が及ぶのを恐れた三上は、まずは会社の同僚である叶向を自宅に招き、簡単な味付けをして食べさせようと思った。好奇心旺盛な叶向ならば、抵抗があっても何だかんだ食べてみるだろう。
قوة اللهの種だけ食べさせるのは怪しいので、他にも豪勢な料理を振る舞って目立たないようにした。
叶向は食卓の隅に置かれた小さな腸の一片をただのホルモンを食べるのと同じように食べた。彼女の表情がみるみる晴れていく。
「これ、臭いけど凄く美味しい! こんなに美味しいの食べたことあまりないよ。まだ残ってるなら少し分けてよ」
「だろ? 持ってくるからちょっと待っててくれ」
よく新しい発酵食の実験台になってもらっている叶向に、余っているقوة اللهの種を渡して食事会はお開きとなった。
その後、彼女に健康被害がないことを確認してから自分も食べた。今まで食べたことのない種類の味覚で、確かに美味しかった。
その数年後、原初の生命の声を聞いてقوة اللهを手に入れた。
結婚して寿退社していた叶向に連絡を取り、それとはなしに探りを入れてみたところ、彼女もその声を聞き、時折、人の意志を目撃するようになったという。その時に限って体調不良に見舞われやすいとも、何だか自分が怖いとも言っていた。
叶向のقوة اللهは「沈黙の目撃者《サイレントウィットネス》」とでもなるだろう。
物事を俯瞰しようとして人の目を見つめる変な癖のある叶向にピッタリな力だった。
しかし、私にとってはなかなかに厄介な能力でもあったのだ……。

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