4-9 トリガー(沙羅)

 最近の情緒不安定、精神の異常なまでの移り変わりのせいで、沙羅は自分の起源を探すのに躍起になっていた。
 母校である南ひとひら高校に行けば何かが分かるかもしれないと思い、当時と同じように地下鉄で向かうことにした。大通で乗り換えて、あるまま、木蓮公園、その後、三駅進んだところに南ひとひら駅はある。
 そこで降りた沙羅は高校の校門まで来たが、流石に卒業してから十年ほど経過しているので足を踏み入れるのには抵抗があった。いくら卒業生とは言っても、もう完全な部外者として扱われるだろう。
 当時の先生たちはどのくらい残っているだろうか?
 こそこそしていないで、勇気を出して職員室に行くべきだ。
 沙羅は郷愁を感じさせる校門をくぐり抜けた。校舎に入った瞬間、沙羅は思わず声を漏らした。
「あ、懐かしい……」
 確かに利用していた鍵の付いていないロッカー式の下駄箱が無数にある。この中にラブレターが入っていたこと、女友だちからのチョコが入っていたことなど、走馬燈のように思い出が脳裏を駆け巡った。下駄箱に触れてみると非常に冷たいが、それさえも愛おしく思えてくる。もう学生じゃないからスリッパが必要なんだと思い、一番端にある来客用玄関のスリッパ置き場で靴を履き替えた。
 廊下のタイル、壁も窓も階段も全てが懐かしい。

 職員室は確か二階だったはずだ。知らない先生ばかりだったらどうしようかと不安がるものの、自分のことを知る方が圧倒的に大事である。職員室前で先生たちの名前を覚えているか頭の中で復唱していると、その扉が開いて男性が出てきた。
「こんにちは」
 その顔に見覚えがあるなと思いながら沙羅は月並みな挨拶をした。された側は眼鏡のブリッジに手を当てて眉間に皺を寄せながら沙羅の顔を確認した。
「ん? もしかして小川か? 覚えてるか? 二年の時、副担任だった村上だ」
「村上先生! 覚えてます! ごめんなさい、いきなり来たから緊張して素っ気ない態度取っちゃって」
 当時、若くて女子から人気のあった数学の村上先生だが、十年以上の歳月を経て、年相応に老けている。
「何かあったのか? 小川、凄く美人になったな、結婚はしたのか?」
「ちょっと気になることがあって。ありがとう。結婚はまだしてませんよ」
「まだなのか? モテモテだろう? 気になることって何だ?」
「全然モテませんよ。先生こそ女子からモテモテなんじゃないですか? 当時、私ってどういう学生だったのかなって気になって来たんです。色々あってあの時の記憶が薄くて……」
「俺はもう歳だし子どもも出来たし、モテてもなあ。小川がどういう学生だったかってか、そうだなあ、皆から慕われてたぞ。誰にでも分け隔てなく接してて、俺が見る限り、凄く良い生徒だったと思うけどな」
「子ども出来たんですね! おめでとうございます! うーん、他にはないですか? 特に悪いこと。本音で言ってくれて結構です」
「ああ、ありがとう。だいぶ前のことだから祝われるのも違和感あるな。他かあ、多少神経質なところがあったかもな、ああいうことがあったから言いにくいんだが、両親のことを嫌っているって面談で言ってたよな。体型に気を遣っていて、過食嘔吐することがあるとも言ってたな」
 沙羅は「両親のことを嫌っている」という思い掛けない答えが返ってきて狐につままれたような気分になった。そんなことを口にした覚えは全くない。
「先生、両親嫌ってるなんてこと、私、本当に言いました? 誰か別の人と間違ってないですか?」
「んー……。間違ってはいないぞ。どういう風に嫌っているかも聞いたし、その場面、はっきり覚えてる」
「どういう風に嫌ってるって言ったんですか?」
「何というか……、お父さんが片目を失明していることを嫌がってたな。まあ、思春期だし、見た目が気になるのは普通だよ。あとは、体育会系で頭が筋肉脳で会話が成り立たないとか。お母さんはお父さんの言いなりで家政婦みたいだとか。本当に覚えてないのか?」
 そんなこと思ったことすらない。俄には信じがたい。そう思っているとまた職員室のドアが開いて、二年の時に担任だった美術の五十嵐先生が出てきた。もう五十歳くらいになる女性教諭である。
「あ、五十嵐先生、小川が来てるんですよ。見てください、凄く美人になりましたよね?」
「あら、沙羅ちゃんじゃないの! こんなに綺麗になって! 男性が放っておかないでしょ、結婚はしてるの?」
 結婚が当たり前でなくなった時代に、挨拶のように結婚の質問をしてくるとはデリカシーに欠けている。年代や職業柄もあるのだろうか、仕方がないと思い、してないです、と答えた。
「村上先生、ちょっとその話、信じられないんですけど。五十嵐先生も知ってますか?」
 何の話か、村上先生が五十嵐先生に説明している。
「ああ、そのことね、確かに言っていたわよ、例の事件の前だったからよく覚えているもの。沙羅ちゃん、思春期の女の子にはよくあることだから気に病む必要はないの」
「いえ、気に病んでた訳じゃないんですが、ちょっと記憶になくて……。もしかしたら、当時、ショックが大きすぎて記憶があやふやになってたのかもしれません。教えてくれてありがとうございます」
 言い終えると、丁度、チャイムが鳴って村上先生があたふたし始めた。
「小川、すまん、これから授業なんだ。またな。いつでも来て良いんだからな」
「先生ありがとう! また来ます!」
 村上先生は後ろを振り返って手を振りながら、授業道具を持って走り去って行った。
「五十嵐先生は授業ないんですか?」
「私はないのよ。良かったら職員室でお茶でも飲みながら話さない? あの頃は本当に大変だったわね。乗り越えてこんなに立派な女性になって……」
「私も先生と喋りたいです。まだ他にも当時いた先生いますか?」
「いるわよ。沙羅ちゃん見たら皆驚くわよ、凄い美人さんが来たって」
「いえ、そんなことは……」
 職員室内に来ることは学生時代にもほとんどなかったが、その入り口や内装がほとんど変わっていないのは把握できた。
 五十嵐先生は優しくて頼りがいのある教師で当時から何でも話せる仲だった。
 海の教団の会長補佐を務めていること、会長補佐と言っても財務などの地味な作業を行うことが多いこと、腸内環境の研究を並行して行っていること、クロリスよりも素晴らしい乳酸菌飲料があるから今度機会があれば持ってくること、こういう立場だから結婚するにも条件があってなかなか難しいことなど、部外者にここまで詳しく話したのは久しぶり、というよりも、初めてなのではないかと思うくらいだった。
 五十嵐先生の方も現状について詳しく語ってくれた。

 職員室内では、まだ多く残っている知っている先生たちが肩を叩いて挨拶してきた。
 来て良かったと思うが、両親のことを嫌っていたというのがどうしても頭の奥に引っかかる。
 机の上に置いておいたスマホのバイブが鳴り、カバーを開いて液晶を確認した。受付の亜弥からだ。
 ちょっと失礼、と言って電話に出た。
「はい、小川です」
「あ、大引ですけど、こないだ来てた川端健人っていう人が来てるんです。沙羅さんに会いたいとのことで」
「健人が? 私、今、南ひとひらにいるの。電話番号教えて良いから、直接かけるように言ってくれる?」
「分かりました」
 健人が来ているなんて嬉しくて堪らない。
 でもどうして? もう色々とバレてしまったのかしら。
 そんなことはどうでもいい。
 南ひとひらで合流したら、そのままどこかへ私を連れ去って……。

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