平日の南ひとひら動物園は閑古鳥が鳴いている。
健人から電話を受け取った沙羅は、南ひとひらにいるから動物園でも行かないかと提案した。喋れればどこでもいいと納得した健人は車で向かうと言って動物園に来た。
窓口のアーチ状部分の中央に動物園名、その左右にカバとサルが描かれている券売所にて、沙羅が入場券二枚を購入した。入場門をくぐると、高校生の頃、家族で来た記憶が朧気に浮かんできた。だが、具体的なことまでは思い出せない。
「なあ、沙羅、何でこんなところなんだ? まあ、話せれば良いんだけど。動物見るの好きだし」
「昔来たことがあるの。ここに大事な記憶がある気がする……」
「記憶がある気がする!? 何だよそりゃ。記憶喪失にでもなったのか?」
「いや、そうじゃないけど、昔のことだから忘れてるみたいで」
何だかやりにくそうな健人はポケットに両手を突っ込んで、沙羅に先んじて順路を進んでいく。彼に付いていくと、フラミンゴのいる水辺が目に入ってきた。
あ、ここでパパがフラミンゴの真似して片足立ちしたんだ。それを見て、恥ずかしいことしないでと思って、無視して先に進んだんだ。そうだ、そもそも、動物園なんて来たくなかったんだ。どうして覚えていないのだろう……?
「なあ、沙羅、海の教団の教義を教えてくれよ」
「いきなり呼んで、用事はそれ? ネットで調べればすぐ分かるのに」
動物を見て回りながら、沙羅が教団の教義をごく簡単に説明する。
皆、腸内環境を健康の中心軸に据えて口にするものや運動に気を配らねばならないこと。基本的に健康と仲間を大事にして平和に暮らすことを目指している宗教だと教えた。
「へー、危なくねえんだな」
危険な集団扱いしたような健人の言い草に、沙羅は少しムカっときた。
「ちょっとそれ、どういう意味? 探偵の仕事で知りたかったの?」
「そのままの意味。ああ、知りたかったのはそれもあるね」
健人はどうしたのだろう? 挑発するにしてもあまりにもあからさまだ。機嫌を直した健人となら一緒にいたいけど、こんなんじゃ帰りたい。このまま、この小規模な動物園を回り終えてしまう。
一旦、沙羅は自分の気を取り直そうと思い、トイレに入った。
ここには何か憂うつな記憶が隠されているはずなんだ。
トイレの鏡にはやたらと険しい表情の自分が映っている。次のゴリラ館が終わってしまえば、もう他に目玉となるような動物はいない。
沙羅は意識的に明るい表情を作ってトイレを出た。また、声も明るくして健人に声をかけた。
「健人、どうしたの? いつもより喋らないじゃない?」
「沙羅が随分と真剣に動物を見てるから邪魔しないようにしてただけだ」
「え? 私、そんなに真剣だったかしら?」
「ああ、大事な記憶があるかもしれねえんだろ? 俺のことは気にしなくて良いから見てて良いぞ」
「そんなつもりじゃなかったの。気を遣わせてごめん……」
ゴリラ館にはボスゴリラと思しき一際大きな成体と他四頭の成獣、それにまだ小さいゴリラが二頭いる。ボスが他の成獣を追いかけている時、二足で立ち上がってドラミングを始めた。両手で胸を叩いて鳴る音はその名の通り太鼓に似ていて、こんな巨大な動物の体から発せられる音には全く聞こえない。
その時、沙羅の脳裏に正確な記憶が襲ってきた。
父はドラミングを見て「あのゴリラ、沙羅のクラスの近藤君に似てるじゃないか」と言い放ったのだ。近藤というのは沙羅が当時、好意を抱いていた男子の名前だった。
逆上した沙羅は一人で動物園を飛び出して、地下鉄で自宅まで帰宅したのである。
動物園巡りは冷え切った親子関係を修復するためのイベントだったのに、あの無神経な一言が全てを台無しにしたのだ。それ以降、父が殺されるまで一言も口を利くことはなかった。声をかけてきても無視し続けた。親族に対しても元々生意気だったから、父母の死後、沙羅に冷たかったのだ……。
そうだったんだ……。
確かに五十嵐先生の言うように「思春期の女の子にはよくあることだから気に病む必要はない」のかもしれない。
その後、亡くなった両親のことを想い続けている理由も今なら何となく分かる。お義父さまの意志が強く伝染して私にもそうさせているのだろう。قوة اللهではないが、まるでقوة اللهの支配下にあるみたいだ。意志というものは一体、どのようにして人を巻き込むのか?
全く報われない片思いのようなこの儚い意志。
お義父さまから両親の話を聞いたことはないが、相当に愛していた、否、愛し続けているのだろう。
でも……、それなら私の今のパパとママへの感情は本物なの?
分からない。
それでも、もう少し若い頃は二人とも憧れの存在だった。
もう涙が出てきて止まらない。ここ最近、泣いてばかりだ。
健人が見ていたって抑えられないものは抑えられないんだ。
「おい、沙羅、大丈夫か?」
「大丈夫。全て分かったの。ありがとう、付き合ってくれて」
真相が判明して動物園を出ると、健人が車で教団まで送っていくという。健人は用事があって連絡してきたのに、自分のことばかりで申し訳ないことをした。
車内で話を聞くと伝えて、助手席に乗り込んだ。
前乗った時と何も変わりない車を健人が発車させた。
「沙羅、本当に海の教団は危険じゃないのか? 本当のことを言ってくれ」
「さっき言った通りよ。何も危険なことなんてない」
「嘘は聞きたくないんだ。蓮を殺したのも叶向さんを殺したのも沙羅のパパを殺したのも、全て海の教団、三上の仕業だって突き止めたんだぜ」
健人はハッパをかけてきている。
あれだけお義父さまが無防備にしてきた上に、山田がقوة اللهの使い手だから真相に近づいているのは間違いない。
しかし、パパを殺したのがお義父さまな筈がない。
それに証拠がないからこそハッパをかけてきているのだろう。秘密結社/Videoの存在も知らないからこそ、その名前が出て来ないのだ。
「何を言ってるの? そんなことするはずがないじゃない。したって得することなんて何もない」
「じゃあ、何で沙羅の父さんが眼球をくり抜かれて殺されたか分かるか?」
分からない。単なる快楽殺人だと思っていて、それ以上考える気力はなかった。首を横に振った。
「沙羅の父さんの目を食べたら大腸の病気が治るからだ」
そんな話はお義父さまから聞いたことがない。山田がقوة اللهの使い手だから何か掴んだのか? 思っている以上に沢山調べ上げたようではある。
「治ってどうするの? お義父さまはそんな病気にかかってないわよ」
「嘘つけ。三上が病気なのは山田のおっさんが聞いてる。いいか? 神の力の使い手というのは腸が破壊されて死ぬが、それが治るんだ。しかも能力を使えるままの状態で。これは三上が山田のおっさんに言ったことだぜ」
健人は続けた。
「そして俺の目を食べたら、どうやら治るらしい。これも三上がおっさんに仄めかしたことだ。おっさんも遙ちゃんも俺の目を見て食欲が沸くんだとよ」
だから健人の目はパパの目に似ているの?
お義父さまはもしかして健人の目を狙っている?
そんな話、お義父さまはしてくれなかった。
押し黙っている沙羅を尻目に健人は喋り続けた。
「まあ、この際、俺の目のことはどうでも良い。沙羅、あんたは自分の父さんが殺されて、黙っているような人間なのか? そんな人間には見えないぞ」
「黙ってるも何も、パパは……」
「また、パパを捜しているって言うのか? パパはもういないんだぞ。目を覚ませ。三上のような奴をお義父さまなんて呼ぶな。殺人鬼だぞ」
殺人鬼というのなら私だってそうだ。でも、またパパが殺される? パパと同じ眼を持った健人が殺される? そんなのはもう懲り懲りだ。
「おい!? 聞いてるのか!?」
沙羅は何か喋ろうとしたが、声が出なかった。あの時と同じようにまた緘黙状態になっている。沙羅はスマホで声が出ないことを打ち込んで健人に伝えた。
健人を失うことなんて考えられないが、彼の眼球でお義父さまが助かるとなれば、一体、どうすれば良いのか分からない。
混乱の最中、まだ意志が正常に機能していた頃の自分を、私は取り戻しつつあるのを感じた。
健人はقوة اللهの使い手ではない。
だが、悪戯癖がたまに癪のパパのように皆の心を掴んで人を動かす強くて優しい力がある。誰が見ても彼の目を美しいと言うだろう。健人の話が本当ならば、だからこそ彼の目がقوة اللهの副作用を治してしまうのかもしれない。
健人は誰よりも人の意志を動かす力を持っている。
قوة اللهは何も特別な能力ではない。どんな人だって人の意志を動かすことが出来る。その性質が少し特殊だという違いがあるだけだ。
「三上が黒幕なのか? 沙羅も知らないことがあるのか? 知ってることを全て教えてくれ」
「…………」
声は相変わらず出ないままだった。
自力で伝えたいという思いからメモなどには頼らず、何とかして声を出そうと力を振り絞った。
蓮の車は海の教団ではなく、マグノリアに着いてそのエンジンを止めた。

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