元の環境に戻れば、緘黙も治るのではないかと沙羅は健人に伝えてきた。秘密結社/Videoという組織があるのだという。海の教団とは表向き独立していて、両方関与しているのは三上と沙羅だけなのだそうだ。
詳しいことは着いてから話すというので、沙羅がナビで場所を指定してその指示に従って健人が車を走らせた。随分と田舎の方で退屈なので、沙羅に独り言のように話しかけながら運転した。
「沙羅、杏のことは気にするなよ。ああいう気が強い女なんだ。悪い奴じゃない」
沙羅が小さく何度も頷いている。その表情はいつものクールな彼女のもので、杏のことはどうやらあまり気にしていない様子である。
「何とか穏便に済ませることって出来ねえのかなあ? なあ、出来る? 出来ない?」
沙羅は険しい表情で首を横に振った。今更何を言うのかという言葉が今にも出てきそうな表情である。
「あ、やっぱ出来ないってわけね。世の中よく分からねえなあ」
こうしたイエス・ノーのやり取りを繰り返している内に、目的地近くまで到着した。沙羅がその指で直進か右折か左折かを指示してくる。何度か曲がって、駐車場が見えたところで沙羅が指でOKのマークを作った。
「ここは何だ?」
沙羅は紙に「屠畜場」と素早く書いた。「とちくじょう」という漢字を何も見ずに一発で書けるとは流石だなと感心して外へ出た。家畜とその糞が入り混じったような強烈な不快臭がする。沙羅はこの悪臭の中、頭を抱えて砂利道にしゃがみ込んだ。
「おい、沙羅! 大丈夫か!?」
健人が沙羅の痙攣している背中を何度も撫でる。
痙攣の落ち着いた彼女は、上体を捻って健人の両脚にしがみついてくる。
そしてそのまま立ち上がり、頭を健人の胸に押しつけて発作的にむせび泣き続ける。
それは延々と……。
蒼い涙目で健人を見上げ、その両目を見つめ続ける。
これは十秒間くらい……。
沙羅は彼の後頭部に両手を当てる。その手に力が入ると共に、彼女は背伸びをして潤った唇を健人の唇に重ね合わせた。
あれはおそらく二十秒間くらいだっただろう……。
沙羅が背伸びをやめて唇が離れると、激しく咳き込み始めた。
「み……ず……」
「おお、声出たんじゃん! 待ってろ! 車の中にある」
健人は車内からお茶の入った五〇〇mlのペットボトルを取り出して沙羅に手渡した。飲み終えてゴホゴホとまた咳を繰り返した後、かすれた声で「全部健人のせい」と言った。
「おいおい、何が俺のせいなんだよ」
「少なくとも私の意志じゃないわ。海の教団は通常、自由意志を認めていないの。だから健人のせい。それに髭も痛かった」
「まあ美味しい思いさせてもらったからそれでもいい。何でここなら声が出ると思ったんだ?」
「私の最も醜悪な部分が出る場所だから……。責任取ってよ? 全部知ってもらうから」
「おいおいおい、キスくらいで何言ってるんだよ」
「そういう意味じゃない。ここまで来たからには全て知るしかないの……」
全くこれだからと思いながら、沙羅の斜め後ろを健人が付いていく。
「ここは秘密結社/Videoの拠点の一つ。この先に建物があるわ。最近出来たばかりの拠点ね。組織の目的は、当初は単なる腸内環境の研究だったの。真面目にやっていたわ。でも健人の眼球が見つからないからでしょうね、お義父さまは治るため、なりふり構わなくなった。生きた動物や人を使って、治るための薬を作る研究をするようになったの。競馬場で健人に会ったでしょ? この近辺、サラブレッドの生産も縮小しているから屠畜場が余っているって情報を得たのよ。教団で買い取って違う施設にするってことで、市と交渉する前だったの。交渉は成立。良い場所でしょ?」
「だからあんなところにいたのか。俺にはくせえし、最低な場所にしか見えないけどな」
「普通の人ならそう思うでしょうね。火葬設備も中にあるの。ここの実験台はその火葬設備で全て遺灰になる高温で燃やして、海にでも撒いちゃえば証拠はなくなる。ひとひらの風習を上手く利用したやり方」
「蓮は? 蓮はどうしてあんな殺され方をした? 斉藤誠は一体何者なんだ?」
「蓮君を殺したのは、Videoのメンバー。最近、殺人のためのメンバーが増えてるの。手頃な会社を買い取って、資質のありそうな社員をメンバーに加えている。斉藤誠は買収したコールセンターの元社員ね。この中にいる。蓮君をああやって殺したのはメンバーで、お義父さまの指示。どうしてあんなすぐに見つかる方法を指示したのかは私にも分からない。私、今まで人が死ぬことで罪悪感を抱いたことがなかったの。それなのに、蓮君が死んで罪悪感に耐えられなくなった。健人に会ってからなの。健人の目がパパの目にそっくりだからだと思う。私の中の何かが変わってきている」
健人はこみ上げてくる怒りを抑えるのに必死だった。
何故、沙羅はこう淡々と喋っていられるのか? 通常の感覚ではない。どうして沙羅がこうなったのかが知りたかった。
悪臭が先ほどよりも立ちこめる中、目の前に屠畜場の姿が現れてきた。想像していたより立派なレンガ造りで横に長い建物である。その入口の前で沙羅が警告してくる。
「この先は普通の人にはショッキングな光景が待ってるかもしれない。大丈夫よね?」
「もちろんだ」
中に入ると屈強そうな男たちが狭い通路の両端に整列している。男たちの真ん中を歩いていく沙羅に付いていく。彼女が通る時、男たちは深くお辞儀をしたまま頭を上げない。
「お、おい、何なんだ、この男たちは……」
「薬物を大量に注入されて、お義父さまのقوة الله、神の力のこと、それによって意志を支配されたメンバーたちよ。ここにいるのは、基本、殺人メインのメンバーばかり。殺人の後は街に出て、性欲や食欲を満たしに行く。斉藤誠はあそこにいるわよ」
沙羅の指差した右側前方でお辞儀をしている、髭を生やした男が顔を上げて笑みを浮かべた。以前、尾行した時の斉藤誠とは顔つきも体つきも全く違うが、それでも同一人物だということは分かる。
「おい、あいつ一発殴ってもいいか?」
「駄目よ。支配されてて状況もよく理解できていない人間にそんなことしたら駄目」
「皆が付けてる変な指輪は何だ?」
「Videoの指輪。メンバーであることが一目で分かるようにしてあるの。あの指輪からお義父さまが調合した薬物が注入される仕組みになっている」
殴れない分、斉藤の顔を思い切り睨みつけてやったが、変わらぬ笑みしか返ってこなくて手応えがなかった。
「殺した報酬は百万円か?」
「何で知ってるの? ああ、斉藤誠の財布発見したって言ってたわね。百万円現金で持ってくなんてお馬鹿ね」
沙羅はあくまでいつもの通り、手で口元を押さえて笑った。
「一つの施設には各一名ずつ、まともな管理人がいる。紹介するわ」
整列している中から白衣を纏った眼鏡の男性が一歩歩み出て健人に会釈してきた。ここでこのまま殺されるんじゃないかと不安になりながら健人も会釈を返した。
「彼、外科医の中田一成先生。メンバーたちに生活や解体の方法の指導をしている。昔は患者のために尽くす立派な先生だったんだけど、どっかでプッツン来ちゃってVideoのために尽くすようになったの」
紹介された細身で長身の中田医師は得意げな笑みを浮かべた。
いわゆるマッドサイエンティストって奴か。
こんな世界があるなんて信じられねえ。
これが大問題として見つかっていないってことも……。蓮はこんなクソみてえな奴らに……。
健人と沙羅は男たちの列を抜けてそのまま先へ歩みを進めた。
「お義父さま、ひとひらの市長も古谷商事グループの上層部も支配しているから。何かあってもバレないし、彼らが責任を取ってくれるって訳」
「おい、そこまで出来るなんて三上の能力ってのは一体どんなんなんだ?」
「私も細かい部分まではよく分かっていないけど、人の意志に反してその体自体を動かせるみたい」
「おいおい、それじゃあ殺人なんてのも簡単じゃねえのかよ。沙羅も支配されてんのか?」
「私は支配はされてない。でも……、あ、あそこで今からサラブレッドが殺されるわよ。凄く悪い生産者が無料で屠殺してもらいたいからって、私たちに頼んでくることがあるの」
鉄柵と鉄柵の間の狭い空間に一頭の栗毛のサラブレッドがいる。
手綱が床のリングに固定されていて身動きがほとんど取れない状況だ。
白衣に白帽とマスクで細菌から全身を守っているであろう男性が、その馬の眉間を鉄の棒で思い切り叩いた。馬は嘶いたが、倒れずにまだ立っている。もう一撃、鉄の棒を食らうと馬は気絶して膝を折るようにして床に崩れ落ちた。その凄まじい地響きが足に伝わってくる。
その後、首の辺りが素早く切られて放血している。競馬好きとして知ってはいても目の当たりにはしたくない現実だった。
「これはサラブレッドの屠殺だけど、研究の場合、腸内細菌が必要だから生きたまま肛門から解体なのよ。人間も動物も問わない。病院や大学の一部、神林駅近辺など、至るところを支配下に入れているわ」
その発言内容が恐ろしくなった健人は、無意識に彼女との距離を歩幅分程度空けた。それに気づいた沙羅が健人の袖を掴んで身を寄せてくる。
「健人……、離れないで。全て知って欲しいの……」
涙を流しているその顔は、親から離れたくない子どもがゴネて泣いている時のものそのものである。いつも隙のない冷静な印象しかなかった沙羅にこんな別の顔があるなんて考えたこともなかった。
「沙羅、さっきの続きを聞かせてくれ。沙羅は三上に支配されてない、の続きだ」
「パパは両目をくり抜かれて殺されて、ママはそのショックで首吊り自殺。それで声が出なくなった私を、親戚は邪険に扱った。あの時、一人の人間としての意志が死んだんだわ。その時に現れたのがお義父さまだったの。そのقوة اللهが私に効かないことを不思議がっていたわ。きっと私の意志は死に絶えているから効かないのだと思う。その分、私はお義父さまの意志を受け継いで振る舞っているかのよう。半ばそう。人って意志がなくては生きていけないのかもしれない。少なくとも私は以前までの私じゃあない。それが健人、あなたに会ってから変なの。死んだはずの意志が戻ってきている気がする。もう自分が何だかよく分からない……」
「俺もはっきり言ってよく分からねえ。が、結局は三上に会えば全て分かるんじゃねえのか? あいつだって俺の眼球を狙ってるんだろ? それならこっちから会ってやろうじゃねえか。三上と二人きりで会う。その仲介、頼めるか?」
沙羅は健人の袖を握ったまま下を向いてしばらく無反応だった。仲介するのもしないのも恐ろしいようであった。
おいおい、こないだの動物園も今回の屠畜場もデートだとは認めねえぞ。もっと他の良いところ行こうぜ。
三上と決着を付けたあとにな。

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