5-2 禁忌(三上)

 教祖室の球面状の窓を僅かに開くと、夜のひとひらの乾いた冷たい空気が怒濤の如く流れ込んでくる。整髪料で整えている三上の髪型が一瞬にして秩序を失った。沙羅からもうすぐ帰宅するという連絡があったため、三上は落ち着きを欠いてしまっている。
 私の可愛い沙羅は一体何をしていたのか?
 大いなるひとひらよ、鎮まりたまえ。
 その語りかけに街の意志が応じたようにして風の侵入がピタリと止んだ。窓を閉めた三上は一階駐車場に見慣れない車が一台停まっていることに気付いた。その中から沙羅が出てきたので一安心である。
 沙羅を降ろした車はすぐに急発進して見えなくなった。沙羅がマグノリアに出入りしていた情報は掴んでいるからおそらく健人の車だろう。彼女を出迎えるため、三上はエレベーターで一階に降りた。丁度、エレベーターに向かって歩いてくる沙羅と目が合った。
「沙羅、おかえり」
「ただいま、お義父さま。ごめんなさい、連絡もせずに留守にしてしまって」
「何も問題はない。食事は取ったのか? ささ、上へあがろう」
「食べてきたわ。話したいこともあるから私の部屋に来られる? それかお義父さまの部屋でも」
「沙羅の部屋に行くよ。マグノリアの連中と接触していたと聞いているが、無事だったか?」
「無事よ。お義父さまが心配するようなことは何もなかったから安心して」
 二人はエレベーターに乗って沙羅の部屋に向かった。
 束の間の別れですら辛いくらい、三上は沙羅を自分の子どもとして愛しているのである。
 その部屋に入った途端、振り返った彼女が「ねえ、お義父さま、私が自立したいと言ったら許してくれる?」と、今まで言葉にしたことのない類の質問を投げかけてきた。思いがけない不意打ちに狼狽した三上は、やはり何かあったのだなと思いつつも「もちろんだ」という親として当然の答えを返した。
 その華奢な腰に腕を回して後ろから抱きつく。
「ありがとう。そう言ってくれると思ってた。もう一つ聞きたいことがあるの。お義父さまのご両親ってどんな人だったの?」
「私を認めてくれない両親だった。腸内細菌の偉大さに幼い頃から気付いていた私のことを変人扱いし続けた。先入観で細菌は全て汚いもの、全て悪だと決めつけているんだ。その固定観念は死ぬまで変わらなかったよ。愚かな人間は賢い人間のことを理解出来ずに変人だと決めつける。そうして安心感を得る。古今東西を問わない普遍的な真理だ」
「お義父さまは賢すぎるもの。じゃあ寂しい思いをしてきたのね。ねえ、そんなご両親でも愛していたんでしょ? いや、今でも愛し続けているんでしょ?」
「そうだな、愛しているからこそ期待に応えようとして腸内環境のことは一旦諦めて古谷鉄道に入ったんだ。正直、喜んでくれると思ってた。だけど、実際は両親は私に嫉妬したんだ。子どもに嫉妬する親なんて想像付かないだろう? 私は親を刺激しないようにわざと能力を出さないでいたところがある。子どもの時から分かってたんだ、この人たちは私の能力を知れば嫉妬するだろうって」
「お義父さま、可哀想……。それでも健気にご両親を愛し続けたのね? 最期はどういうお別れだったの?」
「ああ、愛し続けた。今でも愛し続けている。報われることはなかったがね。特別なことじゃあない。恋愛の片思いだって報われないのだから。古谷鉄道で働いて二年目、母が乳ガンで亡くなって、その後すぐに父が肺炎をこじらせて亡くなった。どちらも仕事中で死に目には会えなかった」
「それは特別なことよ。親の子への愛は恋愛とは違う。無償の愛って言うもの。お義父さまが私に与えてくれているような愛。とても悲しくて辛い思いをしてきたのね」
 後ろから抱きしめられている沙羅は、右の掌で三上の右頬を優しく撫でた。その後、右手の甲で三上の左頬を愛情を込めて摩《さ》すった。
 三上は沙羅の右頬にエロティックとも思える吐息を吹きかけてから、自分の左頬を密着させた。彼女の滑らかな雪白の頬の柔らかな弾力性をしかと感じ取る。それだけでなく、両手では沙羅のお腹周りの弾力性をしっかりと受け止めている。黒髪から仄かに漂うシャンプーの残り香を味わう。
 手塩に掛けて育ててきたこの義娘の存在丸ごとを欲望している。
 沙羅が私であって、私が沙羅であるかのような刹那的で甘美な情感。
「お義父さま、もう一つ言わなければならないことが……」
 三上はその言葉を無視して沙羅の存在を感じ続けた。
「お義父さま……、聞いて欲しいの……」
 沙羅の後ろ髪に額を当てている三上は腹を括ったように返事を口にした。
「何だ?」
「健人が、川端健人がお義父さまと二人で会って話したいって。色々と感づいているみたいなの」
 待ち受けていた最高潮の時がいよいよ到来するのだ。沙羅を抱きしめている両手に力が籠もってくる。
「痛い、お義父さま、痛いわ……」
「そうか、ようやく向こうも感づいたという訳か。漁業収穫祭の日、神林駅で待っていると伝えてくれ。そこで彼と腹を割って話し合おうじゃないか」
 川端健人、我が腸内に宿る原初の生命に唯一拮抗することの出来る神の眼球の持ち主。お前の眼球を平らげて死を免れてしまえば、もう何も恐れるものがなくなるのだ。
 ひとひらが私を呼んでいる。私を待ち望んでいるのだろう。

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