この努力と労力の先に存在しているのは冥府ではないかと思うくらいに長く続く階段を駆け下りている最中、遙は超自然的で美麗な感覚に襲われた。
光量の少ない暗闇の中で、宝石の輝きのような光を目撃したのである。いや、この光は視覚が捉えているものではない。脳が捉えている心象風景のような光である。
その宝石の光には数種類の色がある。
一つ目は脳内の背景色のようなもので、濃いネイビーブルーが不器用な子どもに絵の具で塗られたようにまだらに滲んでいる。遙に心地よさをもたらす宝石である。
二つ目は、途轍もなく巨大なマリーゴールド色をした、刺々しい角を持つ宝石である。まるで血を望む欲望の塊のようなその石は背景色を丸ごと飲み込んでしまいそうなくらいの威圧感がある。安易に近付くと不安の渦に巻き込まれてしまいそうだ。
三つ目は、背景色のネイビーブルーとグラデーションを形成している小さなコバルトブルーのものである。たとえ小さくても、最も豊饒な光を持っていて、己の輝きを周囲に分け与えようとする美徳を感じさせる高貴な宝石だ。
最後は、宝石箱の中から光を放っているスカーレット色の宝石である。かじかんだ手を温め続けるために、決して消されてはいけない五輪の聖火のようなそれは、とても大切に扱われてきたものだと感じ取れる。
遙はこれらの心象風景が意味するところをすぐに悟った。
この周辺に存在する意志を目撃しているのだ。
背景色のネイビーブルーはひとひらの街の、マリーゴールド色の巨大なものは三上の、コバルトブルーの小さくて高貴なものは健人の、スカーレット色の炎のようなものは遙の、それぞれの意志が脳内の心象風景となって放送されているのである。
私はお母さんからその腸内細菌を受け継いで、病人と能力者になった。
今見えている風景はもしかして、お母さんの能力なの?
きっとそうだ。だってとても懐かしい感じがするもの……。
お母さんも三上さんの意志を見て不安を抱いたのかな?
降りていくに従って、恐怖心が増してくる。次の角を曲がったら、あとは一直線でホームまで降り立つことになる。一旦、立ち止まって深呼吸をしてから角を曲がった瞬間、ハッとおぞましい現実に引き戻された。
血の付いたナイフを握り締めた三上が、遙の方を見上げているのだ。
「健人さんは!?」
三上は健人がいるであろう場所を血みどろのナイフの先で指し示した。
ここからは見えないが、無事なのだろうか?
遙には興味のなさそうな三上は、長椅子に座って血の付いたナイフと手をタオルで拭き始めた。
全て終わった?
健人さんが死んだ?
遙は一目散にホームまで駆け下りた。そして三上が指し示していた場所に視線を向けた。
健人さんがうつ伏せで倒れている! その両足の太股裏から大量の血が流れている!
「健人さん! 大丈夫!?」
「来たのかよ……、殺されるぞ……」
健人はうつ伏せのまま振り絞るようにして掠れた声を出した。
良かった、取りあえずまだ生きている。
しかし脳内の心象風景ではコバルトブルーが点滅し始めた。
大丈夫。山田さんと能力を操る練習をしてきたんだ。駄目なら一緒に死のう。
「久しぶりだね、叶向の娘さん」
こちらを見ずにナイフの血を拭い取りながら三上は言った。
「私、あなたなんかに会ったことないわ」
「実はあるんだよ。昔、君を利用して叶向を神林樹海におびき寄せたんだ。覚えていないかい? 君が叶向に電話して、神林樹海に迎えに来てと言ったんだ。樹海に来た叶向を自殺に見せかけて私が殺した」
「あの時の迷子! あのせいでお母さんが死んだのかなって思ってたこともあるんだ。最低!」
「叶向の能力が邪魔になって仕方なかったんだ。君はどんなقوة الله、どんな神の力を使えるんだい?」
「今すぐに分かるわ」
山田との練習の結果、彼とは違う方法で神の力を自在に操ることに遙は成功していた。まず、胸の中心に右の掌を当てながら数秒間祈る。その後、右手を相手に向かって伸ばして掌を開く。最後に心の中で「世界平和《ピースオブワールド》」と唱える。この方法で、人の意志を平和へ導くことが出来るのだ。
今、三上は何も警戒していない。
遙はその一連の動作を行い始めた。
三上の意志が平和に導かれるよう祈りを捧げてから掌を彼に向けて開いて、最後、心の内で「世界平和《ピースオブワールド》」と唱えた。が、遙にも三上にも何か起こった気配が全くない。おかしい。何らかの反応が生じるはずなのに。
「何だそれは? قوة اللهか? 全く効かないぞ」
長椅子から立ち上がった三上は、綺麗になったナイフを握り締めてゆっくりと近付いてくる。
一歩。怖い。
二歩。殺される。
三歩。マリーゴールド色の宝石の光が脳内をちらつく。
四歩。その場から一歩退いて時間を稼ぐ。靴が健人の右腕に当たった。その足首を健人が握り締めてくる。
「沙羅……?」
三上が呟いた。
遙は三上の視線を追った。その先では、階段の壁に背を預けた沙羅が腕を組みながら立ち尽くしている。
「お義父さま。全部、健人の録音機経由で聞いたわ。パパを殺したって。私はそれでもいい。運命の流れに身を委ねるだけ。今までもそうしてきたように」
「そうか、ついに知ったか。沙羅、済まなかった、愛しているよ。大丈夫だ、ひとひらの意志は私に味方している。今終わる。待っていてくれ」
健人が今度は握った足首を叩いてくる。その顔を伏せたまま、左手の中指で自分のことを何度も指し示している。
どういう意味?
五歩。健人が足首を握っているから後退りが出来ない。
六歩。沙羅に助けを求めるようにしてその顔を見ても、彼女は顔を伏せたまま、こちらを見てくれない。
七歩。首を横に向けた健人が何か喋ろうと声を出している。
「何? 健人さん、どうしたの?」
やや屈んで、その声に耳を澄ませた。
「おれに……」
「俺に?」
健人は痙攣している人差し指をくるくると僅かに掲げた。
あ、健人さんに能力を使えってことね、気付くの遅くてごめんなさい。
遙は健人の方を向いて、胸に右の掌を当てた。祈りを捧げる。
お母さん、蓮さん、ひとひらさん、他の皆さん、私に、健人さんに力を与えてください。
遥は掌を健人に向けて呪文を唱えた。
点滅を止めたコバルトブルーの宝石の光が拡張して、周囲を柔らかく支配した。健人が両手で床を押さえつけている。すると何と、彼がそのまま立ち上がった。考えてもみなかった。健人に力が効いたのだ。
三上が立ち止まって、その厳しそうな目を大きく見開いている。
「まだ立ち上がれるのか? そのقوة اللهは人を何らかの形で治療する能力なのか?」
「ちょっと違うな。彼女の力『世界平和《ピースオブワールド》』は人の意志を平和に導く。お前には平和なんてものがないから効果がなかったみたいだがな。俺には効いた。ひとひらの意志はお前になんか絶対味方しねえ。ひとひらは俺に力を与えてお前を殺すのを望んだんだよ」
健人が言う通りにひとひらは彼の死を望んだのだろうか、マリーゴールドの光の輝きもその範囲も小さくなっていく。三上を見ても体を前後に揺らして平衡感覚が失われているような状態になった。健人が三上の体に猛然とタックルを食らわせた。
「まもなく、二番ホームに倖方面行きの列車が到着します。ご注意ください」
場内アナウンスが流れるということは、もう駅が再開しているのか? 腕時計はとっくに五分以上過ぎているのだと教えてくれる。まだ出口が閉鎖されているのだろうか?
タックルした健人はそれで力尽きて、またホームにうつ伏せで倒れ込んでいる。
三上が立ち上がろうとする。
沙羅に手を貸すよう求めたが、彼女は伸ばしてきた彼の手を汚いもののように払いのけた。眉間に皺を寄せて明らかに嫌そうな表情をして。
赤の他人同士のような冷たい対応を受けた三上の表情がみるみる絶望に沈んでいく。
健人さん、ごめんなさい、もう少しだけ頑張って。
遙は両手を胸に当てて、彼女とっておきの祈りを捧げた。「健人さん大好き」という祈りがそれだ。再びその両手を健人に解き放って、元々は詩織が発した謎の英語でしかなかった言の葉を復唱した。
それに応えて健人は再び力強く立ち上がった。太股裏から血が勢い良く吹き出していても関係ない。まるで鬼神そのものの健人は、よろめきながら立ち上がった三上の下半身に再度タックルを見舞わせた。
「愛のはけ口が……」
気弱な声を上げた三上の体が宙を舞った。
足場がなくなったのだ。
その刹那、進入してきた地下鉄の先頭車両が容赦なく三上の体を跳ね飛ばした。健人と沙羅が目を覆ったのを見て、遙もその目を覆った。心象風景のマリーゴールドの宝石は粉々に砕け散った。
全て終わったのだ。
だが、のうのうと休んでいる訳にはいかない。健人はまたうつ伏せに倒れてピクリとも動かない。入れておいたはずのジーンズの右ポケットにスマホが入っていない。どこかに落としてしまったのか。
「沙羅さん、救急車呼んでください! 健人さん重傷なんです!」
放心状態の沙羅が我に返り、スマホを操作して耳元に押し当てた。それを見て安堵した遙はホームの床に寝転んだ。
その心象風景にはただ騒々しい砂嵐だけが放送されている。

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