6-2 環世界(杏)

 世界は一律のものとして、全ての生物に与えられていると考えられているが、その生きる世界は生物によって違う。
 たとえば、犬にとって世界は色彩が欠けたもので、イエバエにとっては世界には濃淡しか存在しないと言われているそうだ。
 それぞれの生物固有の世界のことを環世界と呼ぶらしい。
 今まで読書の習慣のなかった杏も、勉強する必要に駆られて沢山の本を読み続けている最中である。
 というのも、信じ難いことに、健人は眼球摘出手術を本当に受けたからである。今の健人は、四本脚の椅子から三本脚のものに変化した状態と言えるだろう。どちらもバランスを取ることが可能だが、その取り方は全く違うものだ。四本脚の椅子の一脚を取り外して座っても、バランスを崩して倒れてしまうだろう。

 これまでの事の経緯を説明する。
 まず、救急車で運ばれる前の健人が、その眼球を遙と山田に食べさせるよう沙羅に伝えた。咄嗟に口にしただけかもしれないと思い、その後、沙羅は何度も確認したが、考え直すつもりは更々ないという。
 そのため、山田に神の力「真っ直ぐな少女《ストレイトガール》」で彼の本心を探ってもらうよう沙羅はお願いした。
 能力が作用して、むせび泣き始めた健人の口から出てきた言葉には悲壮な決意が込められていた。
「大切な人を助けられないなんてもう二度とごめんなんだ。蓮ともう一人、助けられなかった人がいるんだ。俺は心の底から遙ちゃんとおっさんを助けたい。俺の性格知ってるだろ? 俺はどうにでもなる。頼む。もうおっさんの命は見るからに危ない。早くして欲しいんだ」
 そんなに健気で燃えんばかりの熱情を心に秘めていたなんて、その場にいた沙羅、山田、遙だけでなく、最も長く時間を共有してきた杏でさえも知らなかった。もちろん、情に厚い男なのは誰もが知っていたが、両眼を与えるということはこの先、茨の道が待ち構えていることとイコールなのだ。
 遙と山田の二人が揃って、もう死を受け入れているんだから気持ちだけありがたく受け取っておくと繰り返しても健人は決心を絶対に曲げなかった。そもそも一人で三上に挑みかかった時点で、その覚悟に気付いてあげるべきだったのかもしれない。
 沙羅は三上の隠し部屋から元祖『入口と出口の哲学』を見つけ出し、健人の眼球が神の力の使い手を代々治療してきた「神の眼球」だと綴られていることも発見していた。
 何度も確認を重ねた上で、健人は秘密結社/Videoの中田一成外科医の手による眼球摘出手術を受けた。

 その直前も強がってはいたが、ストレッチャー上で身震いして怖がっているのが見て取れた。皆が手術室に入る最後まで見守った。
 最後に見ておきたい物や人は? という問いには、杏、遙、沙羅、山田の四人の顔を名残惜しげに見つめ続けた後、これで満足だと返答した。
 手術が終わって目に包帯を巻いて出てきた健人は、今までと別人のオーラを放っていた。
 遙と山田は手術後すぐに健人の神の眼球を平らげて、神の力を使えるまま大腸の穴と膵臓がんが完治した。
 グロテスクだから杏はその場に居合わせなかったが、あの二人からしたら御馳走のように見えたらしい。
 その後、二人でひとひら大学附属病院に行き、検査を受けて完治していることを証明した。どう治したのかという問いには「SFの世界が存在する」とだけ告げて帰宅したという。

 健人の方はまだ脚の傷も完治していない状態で手術を受けたから、まともに歩けるまでは盲人としての生活に慣れるどころではなかった。
 もう脚を自由に動かして良いという許可が下りて、サングラスをかけている健人がスクワットをして汗を流している時、杏は今後のことを考えて思わずため息を吐いてしまった。健人は手探りでベッドの位置を確かめてから、その上に腰掛けた。
「おい、杏、何ため息吐いてんだよ。これからの俺の人生はバラ色だぞ。遙ちゃんとおっさんは俺に頭が上がらないだろ。きっと何でも言うこと聞いてくれる。特に遙ちゃんは俺のものだ、ぐへへへへ。ま、心配すんな。AIの時代がもうすぐ来て、視覚に頼らなくても大丈夫な時代が来る。視覚に頼りすぎの現代人どもに、視覚がなくても沢山のことが出来るって見せてやるつもりだ。しかしよ、遙ちゃんと山田のおっさんじゃ身嗜みのこと任せるには心許ねえんだよな。杏、遙ちゃんにファッションセンス伝授しておいてくれ、詩織ちゃんにも出来たんだからイケるだろ? な、師匠!」
 杏の涙にも気付かないで、健人は努めて喋り立てた。目の前で堂々と泣かれていることですら感じ取ることの出来ない健人の姿が、なおのこと、彼女の涙を誘った。
「なあ? 杏、聞いてるか?」
 泣いていることを感じ取られぬよう涙声を隠して気丈な声を押し出した。
「うん、聞いてるよ。遙ちゃんにファッションセンスなあ、あの子、あまりお洒落に興味ないみたいだからな。でも健人のためなら頑張るだろうな。まあ、良かったじゃねえか、これで遙ちゃんを人質に取ったようなもんだな」
「おいおい、それは聞き捨てならねえな、遙ちゃんは好んで俺のために何でもやるんだよ。俺じゃなきゃ自分だけ治って逃げ出してるだろ」
「んな訳ねえだろ、現実を見ろよ。お前に恩があるから何でもやるんだからな。遙ちゃんの嫌がることするなよな。あの子、色々と断れなそうだからな」
「紳士の俺に限って遙ちゃんが嫌がるようなことはしねえよ。俺は和姦しかしたことねえからな」
「それ当然だろ。そうでなかったらドン引きだ。自慢することじゃねえ」
「そりゃそうだな。杏、そういえば一つ頼みがある。退院したらなみだばね町まで付き合ってくれないか? 母さんに会いたいんだ」
 健人が母によくプレゼントを贈っていることも睡眠薬を飲んで「母さん母さん」と泣きじゃくることも知っている。
 だが、メッセージや電話をしている場面を見たことがない。そもそも、見舞いにも来ないなんて、一体、二人はどういう関係なのだろう?

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