6-3 知らなくてもいいこと(杏)

 退院して視覚障害者協会に所属した健人は、目が見えない環境でも要領良く生きていくための極意を体得すべく、会員たちに話を聞いて回った。
 そこから得た知識と経験を活かして、健人も少しずつ視力のない生活に慣れてきた。

 今日はいよいよ、なみだばね町まで行き、健人の母に会う日である。
 ひとひらは厳寒期で、杏は急いで運転席に乗り込んで車のヒーターを回した。健人が助手席、山田が後部座席に座り、エンジンが温まるのを待ってから出発した。
「何で付いてくの私と山田さんなんだ? 遙ちゃんに頼めば良いじゃん」
「杏、遙ちゃんの車乗ったことないだろ? ありゃ生きた心地しねえぞ? まずは一人で練習しろって言っても『一人無理だから一緒に乗ってください』って言う始末。それにまあ、ショック受けそうだしな」
「ショック? 何のショックだ?」
「まあ、なみだばね町行けば分かるかもな」
 大粒の雪がフロントガラスにぶつかり、その数が増していく。雪が降ってきたということですら当初は健人に変な気を遣って口に出来なかった。今ではもうワイパーの音で言わなくても気付いているだろう。

 なみだばね町に着いて、健人に住所を聞いてナビで検索する。
 ナビが到着したという健人の実家と思しき家屋は、あまりにも古びた平屋で築五十年以上は経過していそうである。いくら健人と仲が良くても流石に馬鹿にはしにくい。
「着いたっぽいけど、どんな家?」
「すんげーボロい家あるだろ、それだ」
 後部座席の山田の方を向いた。お互い、重苦しい表情をして視線を合わせた。三人とも下車して、健人の方を見るといわくありげな表情をしている。
 杏の右肘を掴んだ健人をチャイムのところまで連れていった。
「杏、チャイム鳴らしてくれ」
「は? 実家だろ? 自分で鳴らせよ」
「いや、久しぶりで押しにくいんだ。頼む」
 仕方ないなと思い、代わりにチャイムを鳴らすと中からヤクザみたいな男が出てきた。誰だか分からないんだからあとは頼む、という意味を込めて健人の横腹を肘で小突いた。
「ああ、礼子の客か? あいつなら入院してるわ」
 健人が無言のままなので仕方なく杏が対応した。
「何の病気なんですか?」
「アルコール依存症。酒抜かないと肝臓ヤバいんだとよ」
 健人がどこの病院か聞くよう耳打ちしてきたので入院先を尋ねた。音羽《おとわ》病院だと教えてもらい、健人の実家をあとにした。
「健人、どうしたんだ? 訳ありなのは分かったが、ちゃんと対応してくれ。私に頼られても困る」
「杏、済まねえ。緊張しちまってな。病院ではちゃんとする」
 ここまで緊張している健人を初めて見て、杏は少なからず動揺していた。山田も不安げな表情で後部座席から健人を見つめている。
「本当だな? 約束だぞ? ちゃんとしてくれないと病院行かないからな」
「ちゃんとする。それにしてもガラの悪そうな男だったな」
「健人くん、さっきの男の人とは知り合いではないの?」
「知らねえな。母は昔から男に依存しっぱなしだからな。いつまで経ってもずっと女なんだ。相変わらずだぜ」
「アルコール依存症ってのは? それも昔からなの?」
「ああ、母は精神疾患を患っていてな、酒は飲んだくれるわ、自殺未遂繰り返すわで、入院する必要がある、俺は距離を置いた方が良いって精神科医に言われてな、それでひとひらに出てきたんだ。親父は俺が産まれる前に付いていけなくて離婚したらしい」
 いつも強気で悩みなんてなさそうで、精神的にも全くの健康だと思っていた健人にそんな暗い過去があったなんて全く想像したことがなかった。大切な人を助けられないなんてもう二度とごめんだと泣いた健人の、蓮以外の他の大切な人というのはきっと母のことなのだろう。

 なみだばね町の外れにある音羽病院に到着した。
 二階建ての横に長い建築で、太陽光発電のソーラーパネルが屋上から二階部分にかけて並べられているスタイリッシュな病院である。
 病院前の看板の診療科一覧を見て、精神科専門の病院なのだと分かった。
 白杖を持った健人と再び手引き歩行をして進んでいく。病院の中に入り、受付の場所に着いたことを健人に教えた。
「川端礼子さんの面会に来たんだけど、いる?」
「ああ、川端さんならあそこのデイルームでテレビ観てますよ」
 看護師の指差した方向を健人に教えてあげて、パジャマ姿の美人がいることも伝えた。今度は山田が健人と手引歩行をして彼女のいる方向へ進んでいく。三人に気付いた健人の母は不機嫌そうな表情でこちらを一瞥してから、またテレビの方を向いた。更に近づくと健人の顔を茫乎《ぼうこ》とした表情で見つめている。
「健人?」
「ああ、健人だ。久しぶりに会いに来た」
「贈り物、何あれ? センスないのばっか贈ってきて。目はどうしたの?」
 目のことを後回しにしただけでも驚きなのに、俄には信じられない発言をする。杏の想像を遙かに上回る次元で病んでいるようだ。
「悪かったね。一応、頑張って選んだつもりなんだけどな。目は子どもの時から危ないって言われてただろ? いよいよ失明しちまったんだ。あの時、病院連れてってくれてありがとう」
「ああ、そう。何でお酒贈って来ないの?」
「母さん、酒は駄目だろ。それで入院してるんだから」
 健人の母は失明という一大事を全く意に介する様子がなく、見たところ自分のことにしか興味がないようである。
 こんなんじゃあ、健人が可哀想すぎて見ていられない……。
「で、何しに来たの?」
「ん、単に久し振りに会いたいなって思っただけ。俺は元気でやってる。この二人、友だちなんだ。満足したから帰るよ」
 振り向いた健人は山田の腕を引っ張って早くも入口の方へ歩いていく。山田が横から声をかけた。
「健人くん、子のことを本当に心配しない親なんていないよ。『真っ直ぐな少女《ストレイトガール》』で素直な声を聞こうか?」
「いや、いい」
 ぶっきらぼうに答えた健人は、山田の腕を引っ張ったまま入口の自動ドアをくぐり抜けていった。
「健人くん、本当に良いの? せっかく来たのに」
「いい。知らなくて良いこともある。おっさん、そんな能力なんて使って、あのババアが『健人なんて死んじまえ』って言ったらどうする? 俺、それこそもう立ち直れねえよ……」
 健人は小刻みに鼻をすすり始めた。涙腺が摘出されていなければ、一体どれほどの涙が溢れ出たのだろうかと思うほどのすすり方だ。
 己の眼球を犠牲にしてでも大切な人を救いたくなるなんて、大切な人を救えないのは二度とごめんだと思うなんて、一体、母の救済のために彼はどれだけ尽力してきたのだろう?
 そんなあなただからこそ、私はその姿を見習って勇気を奮い起こすことが出来たんだ。

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