惨めにも床に這い蹲って便所に嘔吐する戦いに敗れた兵士、にならなくて済んだのは全て健人のおかげだ。自分は若者の前であまりにも情けない姿をさらけ出していたのだろう。
どうやら自分は自分を客観視する能力に欠けているようだ。
それで訳もなく強気になったり、悲観的な面ばかり見て憂うつになったり、周囲とユーモアセンスが違ったりして、人を困らせることがよくあるらしい。
その一因は、極めて限られた狭い世界で生きてきたからだろう。
マグノリアで沢山の若者と触れ合って、その事実に気付かされた。
もう一度、生き直すつもりでこれからを生きていく。四十二歳だからといって遅すぎるということは全くない。
叶向を置き去りにさえしなければ、三上と近づくこともなくて死ななくて済んだかもしれない。そう思えば思うほど自分の責任の重みに胸が潰れる思いがする。そこから逃げたり、目を背けたりするつもりはもうない。その一半を背負い続けて、それでもなお前へ歩みを進めていくつもりである。
積年の恋愛不能症とでも呼ぶべき状態を克服したい。
美熟女と知り合ったら紹介するよう健人に頼んだら「盲人に美醜の区別が付く訳ないだろう」と怒らせてしまった。
こういうところである。
こんな間抜けな自分にとって人生の伴侶は一朝一夕に見つけられる存在ではない。
神の力は呪われた能力という叶向の遺言に従って、健人のため以外には封印することに決めた。遙も同様の方針である。指切りげんまんして誓いを交わし合った。
ライオンとトラの雑種であるライガーは野生には存在しない。
双方とも、もしも交雑しようとする個体が群れに訪れたら撃退するという仕組みが確立しているのである。
従って人為的に配合することでしか産まれることはない。
産まれた個体は先天的な疾患を持つ場合が多いらしく、長生き出来るものは少ないという。加えて、生殖能力も持たない。
そんな切なきライガーには「神に許されざる存在」という表現がしっくり来る。
山田と遙も悔しいが同様の存在ではないだろうか?
沙羅から初代の『入口と出口の哲学』を読ませてもらった。また、三上が原初の生命から聞いたという声の内容も教えてもらった。
神の力は原初の生命を腸内細菌として住まわせることで得られる能力である。だが、その生命は嫌気性の細菌であり、地球上に酸素が誕生した二十三~二十億年前に滅びたという。
その滅びた生命を蘇らせたのは人間である。
神の力なんて名前は嘘っぱちだ。
その真相は、ただの人間の力でしかない。
人間の玩具のように扱われているライガーに山田は自分の姿を重ね合わせていた。神に許されざる存在が無知なことに神の力を使っている気分になっていたのだ。
使い手が男性の場合、子どもが腸内細菌を受け継ぐことはおそらく構造上ないだろう。
不憫なのは遙で、出産の際に叶向から腸内細菌を受け継いだことを気にして出産を断念したという。人生の慶びの一つを諦めるのに十八歳という年齢はあまりに早すぎる。
叶向の娘である遙と知り合えて仲良くなれただけでもこの上なく幸福な境遇だが、その子どもを見たい気持ちも強かった。
小説の次回作の構想は一から練り直した。
今回の一連の出来事に深く関与した者としては、だいぶ熟していた構想があまりにも仰々しく感じてきたのである。死を前に相当焦って盲目になっていたのだろう。
もう少し身の丈に合った作品を書こうと決めて練り直した作品は自画自賛出来るものだ。
そのタイトルは『声だけの女』。
インターネット経由で美声の女性と知り合った男性主人公が、その女性と何度も電話をしている内に恋愛感情を持つ。会おうという求めになかなか応じてくれない女性に対して、主人公はあの手この手を使って会ってもらえるよう努力する。やがて彼女が住んでいる遠い土地まで飛行機で赴き、対面した瞬間、主人公は複雑な心境に陥る。「声だけの女」は「声だけでしか交流のなかった女」であると共に「声だけしか魅力のない醜女」だと思ったのだ。
人を見た目で判断するのは良くないと葛藤する男性を描いた作品である。
この自信作はきっと売れてくれるはずだ。
健人をサポートするため、山田と遙はマグノリアに今後も住み込むことに決めていた。
ヒッピーのような風貌の健人と小説家らしく内向的な性格の山田は、仲良くなれたのが今でも不思議なくらいだが、お互い麻雀も競馬も好きで、案外、気の合う部分が多いのである。また、年齢差が性格の違いを誤魔化している節もある。歳が離れすぎているため、違いをそのまま違いだとして受け入れることが出来る。同年代だと違いを正そうとして上手くいかなかったかもしれない。
マグノリアの増築が検討されている。
蓮の両親が、彼の死の真相を暴いてくれたことに感謝してマグノリアを購入してくれた。その増築の資金も出してくれるそうだ。
現在、海の教団側と裁判中で、多額の損害賠償金は間違いなく受け取ることが出来るから心配ないという。蓮の死は金の問題ではないが、何より視力を失った健人の力になりたいそうだ。まるで蓮の代わりのように扱われている。
老若男女も国籍も事情も問わない何でも来いのフリーダムな空間にマグノリアをするんだと健人は意気込んでいる。
健人の望みが叶うよう山田も可能な限りの力を尽くすつもりだ。

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