ひとひら競馬で無事三連勝を挙げたナミダミチモクレンはこれで中央競馬に戻る権利を確保したが、健人が最後にもう一度競馬場で観たいという要望を馬主でもある蓮の両親に寄せて、ラスト一戦を走ることとなった。
ダートスタートにも慣れたモクレンは出遅れた初戦以外は無難にスタートを決めて、そのまま楽に逃げ切りを決めている。ラストの今回も強敵は不在。まず楽勝だろう。
「まもなく、競馬場前。降り口は右側です。開くドア、足元にご注意ください」
山田の右肘に掴まった健人が白杖を使い、車両とホームの距離と段差の高さを確認して降りた。そのまま手引き歩行しながら駅を出る。この日のひとひらは麗らかな晴天に恵まれている。三上が死んだ収穫祭を機に、ひとひらの天候は総じて落ち着いていて、天気予報と正反対の空模様になることはほぼほぼなくなった。ひとひらを支配しようとする三上の激烈な意志が海へと帰ったから、街の意志もまた平静を取り戻したのだろうか?
盲目の世界は光一つない暗黒世界なのだと山田は思い込んでいたのだが、そうではないという。
健人が見ている世界は、その先に何がある訳でもない純度百%の透明が遙か彼方まで続いている無限空間。また、時には色彩豊かなめくるめく光が豪華絢爛に輝く万華鏡のような世界が広がるらしい。視覚がない分、脳がこのような美しい世界を目の代わりに見せてくれるのだろうという。
ひとひら競馬場内に入って一番の目的のパドックへ向かった。まだ馬がいなくて、次レースに出走するナミダミチモクレンのお披露目までにはもう少し時間がある。人も数名しかいない。どうせ馬の周回が始まっても余裕で最前列で見られるくらいのレースではあるが、柵に肘を乗せて陣取っておいた。
その間、競馬新聞で情報を得ておく。
モクレンの出るレースは十二頭立てで行われる。
三連勝しているため、相手は今までで一番強くなるが、それでも中央で戦ってきた馬たちとは比較にならないくらい弱い。八枠十二番と、大外枠を引けたのも運が良い。能力は抜けているから多少の距離損があっても不利を受けにくい外枠の方が安心出来るのである。
電光掲示板から見えるモクレンの単勝オッズは……、現在1.0倍。山田の苦い思い出が蘇る数字である。体重は五三四キロで+八キロの過去最高体重である。成長期だから体重増も問題ないはずだ。
「馬、そろそろ出てくるな」
健人の聴覚は鋭さを増して、健常者が気付かない音も簡単に拾えるくらい今の体に順応してきている。その言葉通りに、馬が地下馬道から一頭ずつ姿を現してくる。十一頭が出てきた後、いよいよ真打ちの登場である。
ナミダミチモクレン。
なみだみち牧場の期待馬として、蓮の名前を最後に付けられたサラブレッド。
最強馬ナミダミチクライの血を母の父に持つ数少ない競走馬。
「おっさん、モクレンはどうだ? どんな馬体なのか、精神状態はどうなのか、言葉で教えてくれ」
「僕、馬体のことは分からないよ?」
「他の馬と見比べりゃ大体分かるだろ」
言われた通りに他馬の馬体と比較すると、その漆黒の馬一頭だけ図抜けて背が高いのだと分かった。他馬の体重を電光掲示板で確認すると、全て四百キロ台で、五百キロを優に超えているのはモクレンだけである。もっと細かく観察してみることで、そのトモ――腰から後ろの臀部や後ろ脚の部分を総合してそう呼ぶ――の筋肉の発達具合が並々ならぬものだということを発見した。他馬の中の数頭はトモの筋肉が貧相だったり、腹が巻き上がったりしていて比べるのも可哀想になるくらいだ。
「うん、他の馬よりも体高があってトモの筋肉も凄いよ。パドックって全然見ないんだけど、こんなに馬って違うもんなんだね」
「だろ? 俺は馬体分かるから確信してるんだが、モクレンはGⅠを勝てる器なんだよ。中央でモタモタして二着、三着繰り返してたのは気性の問題なだけ。落ち着きはどうだ?」
モクレンは首をグッと低く沈めて隣の厩務員を引っ張るくらいの勢いで周回している。
「気合い乗りも十分な感じがするよ。だからといってイレ込んでる感じはないし、変な発汗もしてない。前後の馬はチャカついて周回してる」
「目は? 優しい目をしていればこの馬の力を出せる。怖そうな目か優しい目か、見てすぐ分かるのがこの馬の特徴なんだ」
競走馬の目なんて気にしたことがなかった。
山田がその黒い瞳を見つめると目が合った。
知的な光を宿したその瞳は人間の感情全てを見抜いていそうなほどである。威嚇するようなところは全くない。どこまでも思いやりに溢れていそうな目だ。
「うん、優しそうで、まるで人間みたいだよ。賢そうだし、これは状態完璧なんじゃないの?」
「だろうな。蓮の親父も状態がどんどん良くなってるって言ってた。よし、じゃあ馬券買ってゴール前まで行こうぜ」
購入した記念の単勝馬券は蓮の墓に行って見せびらかしてくるという話である。山田の肘を掴んでいる健人はコース前の芝生を踏んで歩みを止めた。
「この芝生の感触、懐かしいな。沙羅と会った時以来だ」
「モクレンのレースを観に来た時?」
「ああ、あの時、沙羅がゴール前に陣取ってやがってな」
「沙羅さん、かなりやつれてるみたいだけど、大丈夫なのかな?」
「そりゃまあ、あれだけのことがあったのに休めないなんてしんどいだろうな。マグノリアに息抜きに来いって言ってるんだけどな」
「来ないって言ってるの?」
「時間がないんだと。何かよ、モクレンのこともそうだけど、血の繋がりって何なんだろうなって考えさせられるよな。血の繋がりがあっても何の意味もない場合もある。俺はクライの血を継いでるってだけでモクレンを応援してるけどよ、それにどこまで意味があるんだろうな。錯覚を応援してるんじゃないかって思う時があってな。わりい、何か変な話しちまったな」
「いやいや、僕も考えるんだ。遙ちゃんが叶向さんの娘だってことにどんな意味あるのかなって。何か運命感じてるけど、運命ってただの人間の思い込みだなってさ」
「それだ、俺が言いたいの。《《運命はただの思い込み》》。《《ただの偶然》》とも言えるな。なのに人はそれに翻弄されて感情を振り回される」
「それで良いんじゃないの? そういうもんじゃない?」
「だな。俺もそれで良いと思うよ。そろそろレースだな」
ひとひら競馬特有の少し滑稽さを感じさせるファンファーレが鳴り響く。
スタート地点は奥でこちら側からは見えないので、電光掲示板で枠入りが順調に進んでいることを確認する。
「枠入り、最後にナミダミチモクレンが収まります。スタートしました!」
モクレンは絶好のスタートを切って外から二番手に付けた。道中、もう抑えきれないといった勢いで先頭に並びかけた。
「手応え抜群だろ? このまま自分から先頭に立って押し切るぞ」
健人の言う通り、モクレンは第三コーナー手前から先頭に立ってグングンと後続との差を広げにかかった。並の馬ならバテてしまうあまりにも強気な競馬だ。
第三コーナーでもう二番手に五馬身ほどの差を付けて、第四コーナーに入る。差は広がる一方だ。
いよいよ最後の直線。
「ナミダミチモクレン! これは強い! 後続との差を広げる一方! これはもう大差、大差の圧勝です! 二番手にリンディ。三番手は更に開いてランドスケープ。ナミダミチモクレン、これで中央に再転入です!」
健人は実況に耳を澄ませて何度も肯いている。
「よし、おっさん、祝杯あげるぞ」
勝って当然なのだからいちいち喜んでいられるかといった様子だが、その内心はきっと相当嬉しいはずだろう。
「健人くん、僕が酒奢るから座って待っててよ。ビールでいい?」
口頭で馬の状態を伝えたり、酒を買ってきたり、そうした一つ一つの些細な行動が、彼の片目になれているようでこの上ない名誉である。彼に恩返しが出来ているのだ。
彼のもう片目の役割を担っているのは無論……。

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