6-8 声だけの女(遥)

 山本竜也《りゅうや》こと山田弘寿が著した『置き去りの少女』は、婚約者である山下健一によってゴーラス海に置き去りにされた主人公・成瀬祐子が、自分はこれだけの仕打ちを受けるに値するほどの罪人だったろうかと回想して、最後、重罪人だったことを発見するという純文学であるそうだ。

「広大なゴーラス海はひねもすコバルトブルーに染まっているものだと漠然と思い込んでいた。今、目の前に広がる夜の海も半月も、銀細工職人が銀を流し込んだかのように不気味に光っている。その金属的な冷たい残響が、私の手足を浸食していくように冷やし続けるのだ」
 遙が『置き去りの少女』の冒頭を朗読し始めると、恥ずかしい、まさか娘に読まれるなんて、山田はそう叫ぶことで朗読の声をかき消そうしている様子だった。逃げられないように火を使って調理しているタイミングを狙ったのである。
「山田さん、うるさくて朗読出来ないんですけど」
「その本だけは勘弁してよ!」
「『過去は捨てたと思っても追ってくる』って奴だな」
 母と愛し合ってくれたことへの感謝しかないというのが正直な気持ちだ。山田は何かを炒め終えると、皿に盛って急いで寝室まで逃げていった。
 健人は遙に本を朗読してもらうことを好んだ。その美声なら声優にだってなれると褒めちぎってくる。

 持ち主の性格が神の力として顕現するのだという話は自分自身を振り返る契機となった。
 遙は普段は全くといって良いほど怒らないが、ごく稀に激怒することがある。その時も平和を求めてのことではあるが、それでも「世界平和《ピースオブワールド》」という神の力に適するほどの性格だろうかと自問自答を重ねたのである。健人に相談したところ、そんなことで悩んでいるのか、おっさんなんて自分は素直な性格だと自認して喜んでるぞ、それでももし悩むなら能力に値する性格になるよう努力すれば良いだけだろうと返ってきた。
 能力に値する性格になるための努力。
 この言葉が遙の心に強く響いた。
 人並み以上に正義感の強い健人を献身的に支えることが、間接的に平和に貢献しているはずだろう。
 だから遙は迷いを吹っ切って健人の力になる覚悟を決めたのだ。
 その努力は惜しまない。
 杏が出て行く前、健人のファッションセンスを教わったが、苦手分野のため、彼女から合格点を貰ってからも定期的に確認してもらっている。
 マグノリアの居間も健人が困らないよう単純化を図った。例えば、見えなければ意味を持たない物は殆ど捨てて、醤油やソースの場所で迷わないようにその容器も工夫した。
 文字を読む必要がある時は代わりに読み上げている。視覚障害者といえば点字を読むものだと思い込んでいたが、その識字率は一割強という低さで、幼い時から習っておかなければなかなか速い速度で読めるレベルまで達することが出来ないのだという。

 一週間に数度、必ず朗読の時間を作ることも約束事だ。
『置き去りの少女』は遙も健人も最も楽しみにしている作品なので、六月四日の今日、健人の二四歳の誕生日まで取っておいたのである。
 午後になったらもてなしの準備などで忙しくなる。
 杏は先日求婚されて受け入れたらしい。夜には彼氏も連れてくる予定だ。
 沙羅は健人の望んだ白黒のぶち猫をひとひら市から引き取ることが決定しており、今夜、連れてくるという。
 詩織も来る。健人の高校の後輩の美咲と萌と大輝の三人も来る。
 他にも、蓮の両親に弟、叔父まで来るのだ。
 それまでの間、もう少し『置き去りの少女』の朗読を続ける。
「……私は彼の強くて優しいところに惚れていた。電話越しの彼は、私の声が優しそうで本当に良いと繰り返した」
「遙、そこもう一回繰り返してくれ」
「え? 私は彼の強くて優しいところに惚れていた。電話越しの彼は、私の声が優しそうで本当に良いと繰り返した」
「そこ、単純だけど俺らみたいで良いな。おっさんは予言者なんじゃねえか?」
 遙と健人は付き合い始めていた。
 絶対に釣り合わないと健人からのアプローチを拒み続けていたけれども、ここまで一緒で特別な感情が湧かないはずがない。
 健人が手紙に指輪を添えて真剣に告白してきた時、指輪のサイズなんてどうして分かったのかと聞いたら、私が付けていた指輪を付けてみて自分の指のどの位置で止まったかで判断したのだという。
 それが正確なサイズだったのである。
 健人、恐るべし。
 私も本当は望んでいた。私なんかで良ければ付き合ってくださいって返事をしたんだ。
 公になってから、皆に知られるのが恥ずかしくて本当に死にそうな思いを何度もした。
 お父さんに聞かれた時なんて、しどろもどろに脈絡のない言葉を並べてしまい、その態度でひとたまりもなくバレてしまった。
 初めての交際が最後の交際になる。
 私の夢なんだ。

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